チャーリーとチョコレート工場

ロアルト・ダールの名作児童文学を、鬼才ティム・バートンが、友人ジョニー・デップとタッグをくんで映像化して見せた、あの話題作である。

 激しく傾いたボロボロの家。チャーリー・バケットフレディ・ハイモア)は失業中の父(ノア・テイラー)と母(ヘレナ・ボナム=カーター)、そして互い違いに寝たきりの計381才の祖父母たちと、ひっそりと、けれど暖かく暮らしていた。
 チャーリーの住む町には世界一のチョコレート会社「ウォンカ」の工場があり、祖父はかつてそこで働いていたというのだが、現在は人が出入りする様子は見えない。
 さて、ある日ウォンカチョコの工場主・天才ショコラティエ ウィーリー・ウォンカ(ジョニー・デップ)が、「工場に招待する五枚のゴールデンチケット」を自社のチョコレートに入れたと発表。次々と金のチケットが発見され、ついにチャーリーがその一枚を手にすることになる。
 祖父と出向いた工場の中は、まさに想像を絶する世界だった。そして、彼と共に招待された子供たちを待ち受けるのは・・?

  
 ロアルト・ダールは「児童文学」を書いてはいるが、彼はオスカー・ワイルドが「幸福な王子」を書いたから「児童文学者」でない(なんといったって「サロメ」だ)のと同じく、彼もまた、「児童文学者」ではない。ダールは、いつだって、「風刺作家」であった。彼の小説の中では、凶器は警察の胃の中に納まり、ロイヤルゼリーを飲んだ赤ん坊にはハチの繊毛がびっしりと生え、品の良い紳士は実はただの飲んだくれである。その彼が描いた「チョコレート工場」は、いかにも子供の好みそうなイマジネーションの世界であるのと同時に、もちろん強烈な「風刺」に他ならない。そして、ティム・バートンは、それをそのまま、風刺であることを理解したまま映像化して見せた。

 ダール本人をどこかの三文記事で呼んだまま「児童作家」と勘違いした観客が、作品のブラックな色あいはティム・バートンの味付けによるもの、と勘違いしていることがあるようだが(素晴らしい子供の世界を、あえて斜から見るなんて、信じられない!といった感想だろう)、これは大間違いである。バートンは、自分の色が、ダールの持つ風刺作家としてのブラックな色と、「チョコレート工場」という物語そのものが持つ素晴らしいイマジネーション世界に合致するのを知っていて、この映画化にいたったのに他ならない。

以下物語の結末ではありませんが、ネタバレが含まれますのでお気をつけください、

 金のチケットを手にする子供たちの面々が最も風刺のきいているところだろう。豚のように食べ続ける大食漢の太った少年、欲しいものを手に入れるために親を召使のように使う少女、ガムを噛み続け、賞をとることに闘志を燃やす少女、テレビゲームにあけくれ、自分の知識をひけらかす少年―この四人の子供たちは、ウォンカによってそれぞれのやり方で淘汰されていく。
 
○豚のように、お菓子を味わうことなく食べる少年は、お菓子そのものに。(糖尿病、の暗喩があろう)
○欲の皮が突っ張ったわがまま少女は、空っぽの「クズ」として、それを許す親と共に文字通りゴミために。
○勝気で全てを勝負と考えるガム噛みの「バイオレット」はShrinking violet(英語の表現で、引っ込み思案の意味がある)の真反対、まさにガムのようにblowing Violet(ぱんぱんにふくらんだバイオレット)に。(そして、それをsqueezeされる!)
○自分の知識をひけらかし、テレビばかりで人を馬鹿にしていた少年ティービー(TV?)は、その真価の通りのサイズと、薄さに。

残るのは、家族思いで、親の言いつけも守る、チャーリー少年、という具合である。

風刺を利かせた、ある意味「グリム童話」のような子供向きの教訓物語―それが原作を含めたこの物語なのである。

 さて、さまざまなところで書かれているように、CGに頼らないそのセットはまさに素晴らしいし、実際のチョコレートを混ぜて作ったというチョコレートの川も、とびこみたくなるほどのできばえである。
 半年かけて調教されたというリスの芸達者ぶりに舌を巻き、映画で描かれる、原作にはない生い立ちをただよわせながら「不思議ちゃん」全開の演技を見せるデップの演技も素晴らしい。映画化という点においては、確かにティム・バートンは天才の手腕を発揮したと言っていいだろう。

 ところで、工場で働く小人「ウンパ・ルンパ」だが―当然こればっかりは、一人を数重に焼き付けたCGであるが―その「おもしろさ」を語るとき、彼らが歌う音楽と踊りの素晴らしさに最も着目すべきだろう。

 お菓子の川で踊られ歌われるのは、往年のハリウッド・ショーミュージカルのパロディである。白黒のショーミュージカルで、水着を着た美女たちが一列にプールに飛び込んでいく様をどこかでごらんになったことはないだろうか。あのころ風の「まさにミュージカル風」歌と踊りが、これだ。
 次はいわゆるカリフォルニア風とでもいうのだろうか。ヒッピーサウンドの雰囲気のあるニューミュージクのさわやかな旋律。
 お次はかの「ディスコ」ミュージック。ナイトフィーバーの踊りを繰り返しながら、ディスコチックに。
 最後は「クイーン」を思わせるようなヘビーなロックで胸毛もあらわに―。

 全ての歌や踊りが、それぞれ「テーマ」を持って作られているのは、なんとも見事で、音楽好きにとっては「おや、この旋律、あれからとったな」というところまでニヤリとできる。ウンパルンパの醍醐味は「かわいい!」ではなく、その音楽や映画のパロディ(「2001年宇宙の旅」のパロディのはまり具合は感動すら覚えるほどだ!)にあることも、付け加えておこう。

 とにもかくにも、映像面で楽しめ、音楽面で楽しめ、そして、ダールのブラックなユーモアと、その真意―最高の幸せは家族と共に味わう菓子であり、菓子そのものではない―を明確にしたまま映像化して見せたバートンには、惜しみない賞賛の拍手を送りたい作品であった。


映画として 9/10
ウォンカ 9/10
おじいちゃん 10/10
ウンパルンパ 150/200

追記:ウォンカの服装自体が「妹の恋人」のセルフパロディなのかもしれない。

クローサー

クローサー

もっと近く、もっと遠く

新進劇作家パトリック・マーバーの人気戯曲を、本人が手直し、構成力では定評のあるマイク・ニコルズ監督が映画化したのがこの作品である。

 めがねにボロボロのシャツ、さえない死亡記事担当の新聞記者ダン(ジュード・ロウ)は、ひょんなことからNYからロンドンに到着したばかりのアリスと名乗る魅力的な女性(ナタリー・ポートマン)と出会い、恋に落ちる。
 場面は移り、クールなシャツに身を包み、いかにも「イケ面」風になったダンの写真を撮っているのは、女性写真家アンナ(ジュリア・ロバーツ)。二人は唐突に惹かれあう。が、ダンが出版する本のモデルとなった女性が彼が同棲する恋人アリスだと知ると、アンナは足を踏みだせない。
彼女をあきらめきれないダンのしかけたいたずらで、アンナが知り合ったのは皮膚科医ラリー(クライブ・オーエン)。アンナの「見知らぬ人々」を題材としたポートレイト展覧会をきっかけに、彼らのcloser(もっと近くへ)が始まる・・・。


 いわゆる日本語の「ついたり離れたり」的展開を、この映画は私たちの日常の「ミクロコスモス」として描き出す。この映画では四人で行われていることが、私たちの周りでは十人、百人、という単位で行われているに過ぎないのだ。

 物語のキーワードは、「stranger」という言葉だ。人間はそもそも「他人同士」にしかすぎず、見知らぬ人同士が知り合い、そしてまた他人となっていく―その過程を、極端にその「合間」を飛ばすことで彼らの「心変わり」をひきたたせながら描いていくところなどは、監督とマーバーの力量を見せ付けられる思いである。
 
 ストリッパー・アリス(イギリスという「不思議の国のアリス」のアリスである)は、まるで「すさんだ」人生を生きているようでありながら、四人の中では最も純粋に愛を信じ、実行する存在である。また、全てを「ストリップ」する存在でありながら、男性に、本当の彼女自身は明かしていないことは逆説的に彼女の愛の純粋さを物語ってもいる―真実の彼女を明かすことは、「永遠の愛」の証でもあるのだ。
 また、彼女の人物設定は、「ティファニーで朝食を」のホリー・ゴライトリーの影響を色濃く持っていることも追記しておこう。男に汚されながらも純粋で、無垢で、無知なようで最もコトの真髄を捕らえているのが、このアリスである。

 ダンは「女性によって作られる男性」の典型かもしれない。それは「愛によって作られる男性」でもあるのだが、アリスも、そしてアンナも、初対面の彼の服を直し、ネクタイを直し、まるで彼の母親のような所作をする―いわゆる母性本能をくすぐるタイプ、という描かれ方であろう。「あなた12歳?」とアンナがだだをこねる彼をなじる場面があるが、結局はその彼にアンナは惹かれてしまうのだ。その少年らしさゆえ、移り気で恋に落ちやすく、繊細さが女性たちに愛されるのだが、結局は数枚もうわてのラリーにはたちうちできない。果たして彼が年を経るとラリーのような「男」になるのかは、なぞである。

 ラリーはその職業のごとく「表面の」男だ。女を表面から、舐めるように、見る。言葉を「表面で」使う。彼の「愛している」は「(性的に)いいね」の意味であるし、妻への支配欲はセックスで満たし、同時に、他の女たちへの欲望もつきることはない。全てを「性」へとつなげて考える、彼はいわゆる「男性的な男性」であるのだ。男性の典型的な「ダブルスタンダード」で、自分が売春婦と寝たこと以上にアンナを攻め立て、ストリップバーで興奮しわめきたてる彼は反吐が出るほど下品であり、また妻を取り戻すためにこうじる策はまさに狡猾であるが、同時に、ウィットに富み、優しい一面もある―そう、つまり、彼はただただ、典型的な男性なのだ。普遍的とも言える一般的な男性像。それが、ラリーである。

 アンナは「流される女性」だ。ポートレイト写真を撮り、物事の真実を捉えていながらも、そのときどきの状況に流されてしまう。人に流され、出来事に流され、意志があるようで意思を持たない。それが成功した女性アンナ本人である。ラリーが彼女を「幸福を好まない」と称しているが、あるいは彼女は「安定を好まない」女性ともいえる。「他人」の「芯」を捉えた写真を撮り、それによって自身の成功を気づいていく彼女本人の「芯」は、常に流動的で、葦のように流されながら立っている・・実はアンナが最も、「一般的な現代人」であるのかもしれない。

 四人の恋愛劇は、人間の「肉体」と「心=愛」の関係を紡ぎだしていく。愛は肉体ではなく、目に見えないが、肉体に支配される。そして、全ては舌がつむぎだす、言葉に支配される・・・。言葉にも、肉体にも嘘が潜み、そこに真実を見つけ出すのは、至難の業である。いや、「クローサー」では、かろうじてアリスが、(しかも逆説的に、そして残念ながら)見つけたに過ぎない―――。

名戯曲を、上手に映画化した、なかなかの良作であった。また、クライブ・オーエンと、ナタリー・ポートマンの好演は、賞賛に値することを最後に付け加えておこう。

映画として 8.8/10
見た後、恋をする気分 0/10

ネバーランド

 ネバーランド  残されたステッキと山高帽

イギリスの劇作家ジェームズ・バリーと、「ピーターパン」を書くきっかけとなった少年との出会いを描き、映画としては高い評価を得ながらも、「事実と違い、まことに遺憾である・・・」登場人物の遺族からこんなコメントが発表された作品、それが「ネバーランド」である。

 20世紀初頭のロンドン。失敗作続きの劇作家のジェームズ・バリ(ジョニー・デップ)は、公園でシルヴィア(ケイト・ウィンスレット)と4人の息子たちに出会う。その中で三男のピーターは、子供らしい遊びに参加しようとしない物静かな子供であった。父親を最近亡くした痛手が、彼から子供らしさを奪っていたのである。
この姿は、兄を亡くし嘆き続ける母親のために子供であることを捨てた自分の子供時代をバリーに思い出させる。
子供らしさが「けっして失われない」国、ネバーランド・・・・バリーは執筆を始める・・。

 「実際にあったevents(出来事)にもとづいています・・」と始まるこの映画で描かれる事柄は、確かにほとんどが「実際にあった出来事」を描いている。ただし、決定的に時系列が違うのだ。実際はシルビア・デイビスとバリーが知り合うのは、まだシルビアの夫が存命中であり、二人はその中で友情(愛情か?)をはぐくみ、「ピーターパン」発表後、夫が顎のガンでなくなる、といった具合である。
 また、バリーが最もデイビス家で親しかったのは長男ジョージであり、ピーター本人はピーターパンと同一視されるのを嫌っていた、とも言われている。

 しかし、事実を改変してこそ、バリーとシルヴィアの美しくも哀しい友情や、ピーター少年とバリーの心の交流といった多くの観客を涙させる物語が生み出されるのだから、これはある程度いたしかたあるまい。しかし同時に、バリがデイヴィス家の息子たちと「ごっご」遊びを楽しみ、自分が子供であったことを思い出す過程で「ピーターパン」を生み出したというのは、紛れもない事実である。バリは自分の中の子供を、デイビス家の子供たちによって開花させたのだ。

 さて、この作品で(シルヴィアの夫の死亡時期によるずれはあるにしろ)全くの真実として描かれていることがある。それは、バリーの妻との関係、そして離婚の経緯だ。バリーは妻の女優メアリ・アンセルとの間に子供はなく、結局彼女は弁護士との浮気を認め離婚といたる。
 映画では、バリーと妻との関係は、ただの夫婦関係のもつれとしては描かれていない。そこに描かれているのは、たとえば「エイジ・オブ・イノセンス」で描かれたような(国は違うが)、「社交界」とバリーの姿である。すべてが決まりきった型にはまった小さな密室のような社交界で、妻メアリーは社交界の奥方としてすべきことだけに捉われた人生を送っている。社交界でのゴシップに目を配り、ステイタスとしての寄付活動に躍起となる。世間体をなによりも重んじ、表面的なコトバや笑顔ばかりで、けっして心から笑うことはない―それが、当時の社交界の姿であった。
 バリーはその小さな窓のない社会の中で少しづつ締め付けられ、妻との家庭でも、社交界の男性として、そして夫として求められる役割の中でその才能をおしつぶしていったに違いない。それを開放したのが、デイビス家の子供たちとシルヴィアとの出会いであったのだろう。

 シルヴィアが夫を亡くした後である、という設定は、実は非常に巧妙である。社交界は男性中心の社会で、そもそも当時の女性には参政権もなければ、財産を相続する権利もない。(ヴァージニア・ウルフの同時期の小説「オルランドー」では、性が変わっていく主人公の物語が描かれているが、これはウルフの友人が父親を亡くした後財産も家も相続できなかったことから着想を得た物語である)夫を失った女性は、そのとたんに社交界からも、社会からも締め出されるのである。密室から締め出されてしまった女性と、密室に自分が殺されていくような感覚を味わっていた男性の出会い―それが、映画の中のシルヴィアとバリの出会いであった。
 あまりに親しすぎる故にゴシップとなる二人は、そのためにますます社交界から締め出されていく(これは、事実においてでもそうであろう。夫のある女性と親しくなれば、それは最大のゴシップである。)が、それはあるいはバリにとっては好都合であったのかもしれない。彼はシルヴィアや子供たちとすごすことで、やっと大きく息をすうことが出来たのだ。
 そうして「ピーターパン」が生み出された、というのは、確かに、紛れもない、事実なのである。

映画のラストで、バリーがベンチにステッキと山高帽を残して去っていく。それは、彼が社交界から(精神的に)決別したことに他ならない。そして、ピーターパンを先頭に、子供たちが飛び立つそのはるか足元には、ロンドンの議事堂があり、町並みがある。彼らはロンドンという町に「押し込まれず」に、そこから飛び出していく―そう、確かに、バリーこそが、ピーターパンなのである。

映画として 8/10
デップ 9/10 (ごっご遊びコスプレに6点 スコットランド訛りに3点)
ウィンスレット 10/10 (この映画は彼女なくしては成り立たなかっただろう。彼女がこれだけ演技力のある女優だとは「タイタニック」のときに誰が想像しただろうか)
 

スーパーサイズ・ミー

nakamura

 2001年のベネチア・ビエンナーレで、日本の現代芸術家中村政人が展示して見せたのは、薄暗い部屋の中に、幾重にも迷路のように連なる巨大な「M」のネオン・ロゴであった。そのまがまがしく黄色い光を放つ「M」たちは、われわれの良く知るあの「M」−世界共通の単位であり、最短の「世界の言葉」―であるがゆえある種の親しみの感をわれわれに抱かせ、また同時にそのあまりに均一化された連続性と巨大さゆえに、重くのしかかる圧迫感、恐怖心をももたらした。(写真はその作品)
 そしてそれこそが、マクドナルドの本質であった。

 この映画の監督スパーロックは三十代前半、どちらかといえばおっとりとした、ほがらかな白人アメリカ男性である。身長は高いものの、中肉。ベジタリアン・シェフの彼女に「肉食はやめなさい!」となじられても、微笑んで交わし、彼女のベジタリアン料理に、そしてベーコンやステーキにも舌鼓を打つ、心身ともにきわめて健康な男である。そんな彼が、ある日こんなニュースを目にした。


「ニューヨークの米連邦地裁は4日、糖尿病や心臓病などの症状がある肥満児らが、
 肥満の原因となる食事をさせたとしてハンバーガー店チェーンのマクドナルドに
 損害賠償を求めた2回目の訴えを却下した。

 地裁は今年1月、肥満は食べ過ぎた本人の責任として同じ原告らの訴えを退けたが、
 内容を修正して再提訴することは認めていた。

 原告側は新たな訴訟で、マクドナルドが自社のハンバーガーなどを健康な食品と
 消費者に誤解させているなどと訴えた。これに対し地裁判事は、マクドナルドの
 食品が原告の健康被害の原因であることや、誤解を招く宣伝の事実を原告側は
 立証できなかったとしている。
 原告側はさらに再提訴を認めるよう求めたが、判事は却下した。 」(2003年9月、実際の新聞記事より)

マクドナルドに害があると立証できなかったから、却下か・・・なら、一月マクドナルドを食べ続けて、立証できたら、どうなるんだろう?」―ーそれが、作品となったのが「スーパーサイズ・ミー」である。

 そもそも「スーパーサイズ」とは、SMLのそのまた上のサイズを示す。しかし、日本のMサイズがそもそも向こうのSであるから(そして、アメリカのMは日本のLよりも大きい)スーパーサイズとなると、日本のバーガーしか目にしたことがない人間にはもう想像不可能ともいえる大きさである。
 この映画の公開後「映画とは関係が無い」としつつマクドナルドが販売をやめた「Lの上のスーパーサイズ」を、監督はアメリカ全体の傾向だとさらりと言う。全てを大きくした上に、人間そのものも大きくなったのがアメリカだ、と。

 ご想像のとおり、一月間マクドナルドを食べ続けた後のスパーロックの健康状態は医者が驚くほどに悪化する。そして、これは想像もしなかったことであるが、アメリカ人としては珍しいほどおっとりとしたスパーロックが、その表情から見て取れるほど精神状態までも悪くなっていくのが、この実験の一番の驚きである。食品添加物による中毒症状の結果であるとすれば、スパーロックも言っているとおり、遊具施設を併設し、おもちゃを付録にする「子供を巻き込もうとする」マクドナルドの戦略は、あまりに恐ろしい。

 が、この映画には「華氏9.11」のような圧倒的な敵意は無い。それは監督のおっとりとした人柄によるものもあるのだろうが、あくまでもマクドナルドを中心としたジャンクフード業界を身を挺して暴き出しながらも、その語り口はいたってソフトで、攻撃的ではない。適宜挿入されるグラフと事実、そして映像による現実と数々の権威たちの証言―ポップな音楽と映像を交えながらソフトにつむぎだされるマクドナルドの恐ろしさは、かえって、どちらかといえばアグレッシブではないわれわれ日本人の心には、ムーアの語り口以上に鮮烈に残るかもしれない。

 さて、監督の実験とその行程・結果の隙間に「大国アメリカの構造」が見え隠れしているのも忘れてはならない。
 それは、資本主義の末路であり、資本主義「国家」の末路である。

「消費」を促すために、全てが大きくなり、「人」が大きくなる。
「人」が大きくなったのを「ダイエット」させる商品を「消費」するように人をうながす。

 「国民」の「消費」により「資本」をえるためなら、「国民」の健康を守るよりも、「資本」の担い手であるマクドナルドのような「企業」を優先する―それが、アメリカという国家の現在である。
 国に忠誠を誓うあのアメリカ国民がすらすら口をついて言えるのは、マクドナルドの宣伝文句であり、子供たちはIn God We Trust(※1)のはずであるいわゆる「イエス様」の像はしらずとも、マクドナルドのキャラクターは知っている。

 「資本」のために「企業」をたてに自国の国民すらひたすらに洗脳し、操るアメリカという国家が、何らかの大義名分のための戦争や他国援助をする、という事はまずありえ無い―そんなアメリカのまがまがしい真実と、「政府」と「企業」がしっかりと手を結び、「国民」を無視しているというアメリカの「構造」(※2)が、監督が用いるグラフや証言のそこここに見え隠れしているのを目にすることは(※3)、なにもかもが不透明で、それを暴くことすら誰もしない日本という国に住むわれわれには衝撃的ですらあるだろう。
 それは、ジュースに溺れていることを知っている蟻と、自分がなにに溺れているのかも知らない蟻の、差であるのかもしれない。

 「マクドナルド、食べますか?それとも日本人やめますか?」
  こんなキャッチコピーが浮かんだ、映画であった。(※4)

映画として 8/10
監督  10/10 (久々に目にした、おっとりとほがらかなアメリカ人である)

※1 アメリカのコインにはそう記されている。目にするたびに、「政教分離」という言葉が思い浮かぶ。

※2 これは、映画の「学校給食」のくだりでもっとも顕著である。コストが同じでより栄養価が高い学校給食よりも、企業配給のファーストフード給食を、「資本」確保のために選択しているのはアメリカ国家本人である。

※3 証言やグラフが存在するということは、アメリカという国家は、政府と企業の癒着状態を示す情報自体は開示している、ということである。ただ、それを見ようとしない国民が多いというだけである。一方日本では、その情報すら不透明であり、それを開示させようとする国民すらいない。

※4 日本人にとってのマクドナルドは、たいていの場合夕飯にはなりえなくは無いか。一方、アメリカ人にとってのマクドナルドは、まぎれもない主食であり、夕飯であり昼食であり、同時にスナックでもある。日本人が、ともすれば三食というよりも軽めのスナック的な見方で認識しているファストフードは、アメリカ人にとっては純然たる「三度の食事」なのだ。
 そのインパクトは、農協のお米全てに有害な食品添加物があって、三食農協のお米を使った食事を食べたら肝臓を悪くした、というくらいあるに違いない。(もちろん、ファストフードという点は置いておいて、インパクト基準でだが)
 マクドナルドの「三度の食事」に有害な添加物や、栄養過多があるとすれば、それは確かに、日本で以上に罪深いといえるかもしれない。

宇宙戦争

 スピルバーグ的寓話


 スピルバーグの大新作「宇宙戦争」である。徹底した秘密主義の末に公開されたその中身は・・・

 ニュージャージーに暮らすレイ(トム・クルーズ)はごく平凡なアメリカ人。別れた妻との間には息子のロビー(ジャスティン・チャットウィン)と、娘レイチェル(ダコタ・ファニング)がいた。ぎくしゃくしたままの子どもたちとの面会の日、空が突如不気味な黒い雲とともに雷鳴をとどろかせると、地中から見たこともない巨大な「何か」が現れ、人類に襲い掛かり始める。人々がパニックに陥り逃げ惑う中で、レイは子供たちを守りぬくことを決意するが・・・。


 制作費130億円に対しての興行収入が一割にも満たないと言うこの作品は概して不評である。しかし、この映画をうんぬん批判するよりも、私の同僚のカナダ人を引用して「Very Spielberg!」と言ってあげるのが、映画好きと言うものであろう。よい意味でも、悪い意味でもこれはスピルバーグ映画なのだ。
 
 スピルバーグファンであれば、これがある意味、監督が意図しないうちの自分の映画のパロディーになっていることは、すぐにお気づきであろう。トライポッドの触手が主人公たちを探す場面はまさに「ジュラシックパーク」のヴェラキラプトルとのかくれんぼの場面であるし、地下室の小さな窓から漏れる轟音と光の場面は、まさに「未知との遭遇」の少年が異星人にさらわれる場面であり、トライポッドはあるいは図体の大きな「マイノリティーリポート」の生命探査ミニマシーンであるし、あのおどろおどろしい空は「未知との遭遇」でも「E.T」でもあり、そしてトライポッドに捕らえられ籠に集められた人間たちはそのまま「A.I」のロボットたちの構図であり、そして、凄惨な光景の前にただただ立ちすくむダコタ・ファニングのシルエットは、「ポルターガイスト」の少女の姿に生き写しである。ただひたすらにスピルバーグ・・・それがこの130億円の正体である。

 さて、原作はご存知のとおりH.Gウェルズ。かの大パニックを起したと言うラジオ番組の原作である。もちろんこれはイギリスでの話であるから、スピルバーグがこの舞台を「ニューヨークからボストンヘの旅」へ移したことは、監督本人の意図であることは明白である。そう、それは「9.11の街から、アメリカ発祥の地へ」の旅なのだ。
そして、見逃してはならない小さな隠されたキーワード・・それは、主人公の息子が宿題に出されている「アルジェリア戦争」のレポートと、娘の手に刺さった棘のエピソードである。

 アルジェリア戦争とは、フランスに植民地化されていたアルジェリアが独立のために戦ったという歴史上の事実である。このレポートを課された息子は、逃げ続けるうちに「同胞を守るために戦うべきだ」という意識を持ち、そのため父親と意見を異にすることになる。
 これを裏付けるように、侵略によって地球を別の星に変えようとする宇宙人に果敢に挑む軍隊たちは「市民を守れ!」と口にし、果敢に未知の生き物に向かっていく。そこには、逃げ出す軍隊や、逃げ惑う兵隊といった描写は全くない。一見斜に構えた息子でさえを含め、真っ向から戦いに挑む彼らは高潔で、また、たのもしい存在として描かれている。自由のために戦う彼らは、強く美しい。
 また、同時に逃げてばかりでなく戦うべきだ、と語る息子の姿は、ユダヤ人(監督本人のルーツである)の逸話と重なる。ユダヤ人が集まると、こう語られることがあるらしい。あのときになぜわれわれはナチの言いなりになったのか、なぜ真っ向から戦いを挑まなかったのか、と。とにかく逃げることで生き延びようとする父親と、戦うことで生きようとする息子の会話は、こんな言外の意味をもにおわせる。これは、 war of the wolrds ではなく、むしろ全世界に常に存在してきた、wars in the World である。戦場に生きる子供たちのあの目を、監督は、ダコタ・ファニングのあの類まれな演技力で、代表させているのだ。
 
 一方、向こう見ずなレジスタンス的な戦いをしようとするティム・ロビンスは、その「意味のない戦意」ゆえに駆逐される。明確な意図も計画も、そして団結も無いままに戦いを挑むことは逆に生命を危険にさらすだけでナンセンスですらある。生き延びるために戦う(主人公)のと、向こう見ずに戦いを挑む(ロビンス演じる男)のと、そして、同胞を守るために身を投げ出して戦闘する(軍隊・息子)のでは、それぞれにもつ意味が違う。

 さて、娘の手に棘が刺さったのを抜こうか、と声をかける父親に、娘が言う。「触らないで。自然と私の体が棘を押し出すから。」―これはまさに、この映画のラストを暗示している。結局はガイア―地球は一つの生命体であると言う概念である―が、この侵略者たちを「押し出して」しまうのである。「人類は共生をなしとげている」とのナレーションに、肩透かしを食らった観客も多いが、これは実は「ガイア」の概念そのままのエンディングであり、実は一番の原作・映画を通してのメッセージでもある。

 同胞のために戦いを決意した息子も、娘を守るために懸命に逃げ続け、娘のためだけに戦った父親も、娘も、彼らは無事にアメリカ発祥の地「ボストン」にたどり着く。それは、イギリスとの激しいこぜりあえいの末に手に入れたアメリカという新天地であった。

 崩壊するキリスト教会の塔―あのNY(正確には、庶民が暮らすニュージャージーからではあるが)から始まったこの物語が、象徴的な父と息子の「ボストン」での再会で終わる―敵の攻撃から同胞を守るための戦いと、生きるための戦いとの新たな出会いである―のは、偶然に意図されたものではない。そして、そのあとに流れる「共生」のアナウンスも、完全に計画されたものである。

 同胞を守る戦いも、家族と生きるための戦いも正しい。しかし、共生によって血が流されるのが終わることもある―


 スピルバーグは、ここ数年作品をすすめるごとにより象徴的になっている。彼が、いつか、「完全な社会的メッセージを描きこんだ完全な娯楽作品」を作り出してくれるまで、私は見守りたい。奇しくもロンドンのテロと公開が重なったこの映画で、少なくとも、彼の言っていることは、けっして間違いではないのである。

映画として 7/10
トムダディー 9/10
ダコタ   10/10



 

ヴィレッジ

 「失敗から新たに学ぶ男、シャマラン」

シックスセンス」「サイン」のシャマラン監督の最新作がやっとビデオ化とあいなった。


  森に囲まれた、静かな村。人々は農耕を営み、マキを割り、刺繍をし、パンを焼く。そんな平和な村には決して破ってはならない三つの掟があった。森に入ってはならない、不吉な赤い色を封印せよ、警告の鐘に注意せよ−。村人は森に棲むと噂される未知の生命体を恐れ、自分たちの世界の中だけで慎ましく生活していた。そんなある日、弟を病気で失ったばかりの若者ルシアス(ホアキン・フェニックス)が、村にはない医薬品を手に入れるために、禁断の森を抜けたいと、長老会に許可を申し出る…。


 シャマラン監督は、「サイン」で、犯してはならない失敗をした。映画―とくにそれが、スリラー映画やホラー映画であるとき、「恐怖」はよほどの美術的なセンスが無い限り、あからさまにそのものを提示してはいけない、というルールである。「エイリアン」や「ヘルレイザー」など、「恐怖」を形にすることで、余計にそれをあおる映画も数多く存在はするが、それにはよほどの美的センスと、渾身の注意が必要とされるのだ。あの「13日の金曜日」でさえ、おそらく、ジェイソン本人の全身像が、しっかりと(そしてフツウに)映っているシーンなどほとんどない。下からのおおうつしであるとか、手のアップであるとか、そんなよくよくに注意を重ねた映り方である筈だ。

 「サイン」では、シャマラン監督は、美的なセンスのかけらもない「恐怖」を、何の手も加えずに、きわめてフツウに写してしまった。それは、単なる「作り物」にしかすぎず、ほとんどの観客の興をそいだはずである。全てが一つの線につながっていく伏せんの作り方は悪くなく、そのエピソード自体も心に残る。しかし、「恐怖の提示」が全てをダメにしてしまっているのだ。

 シャマランは、一つの失敗から幾つかのことを学び、そして、「ヴィレッジ」でそれを逆手にとってみせた。
 「恐怖」はあからさまに提示されると、作り物であることが観客の興をそぐ。恐怖は所詮人間が作り出したものにしか過ぎず、怖がるのは人間本人の心である。


すべてが人間の心にあるのなら、その「提示」もはじめから「作り物」にしてしまえばよい――

そうしてできた映画が、「ヴィレッジ」である。

(以下、結末をかいているわけではありませんが、ネタバレが含まれます。これからご覧になる方は、お気をつけください)


 この映画で恐怖を作り出し、それを刷り込んだのは、村の長老たちである。第二世代たちを村の外に出さないために、「真実」を隠すために、彼らは恐怖をあおる「掟」をつくり、森に住むと言う恐ろしい生き物そのものをも「手作り」した。そもそもこの村全てが彼らの「手作り」であり、その中にいたっては、恐怖すら「手作り」であったのは、ある意味アイロニーでもある。
 赤い色は、彼らの愛しいものが奪われたときに流された血の色であり、彼らはそれを防ぎたいがために、恐怖を手作りしてきた。しかし、平和も恐怖もその両方が手作りの村に、本物の作り物で無い恐怖が生じたとき、村は危機にさらされる。「真実」を隠すための「作り物の恐怖」が、新たな「真実」の色を帯びてしまったのである。

 ルシアスが刺され、その婚約者アイビーが薬を森の外に取りに行くのに同行する若者たちの、森でのおびえようは、尋常ではない。彼らはひたすらに「作り物の恐怖」を刷り込まれて育った世代であり、彼らの心の中では、その「作り物」は、「本物」である。彼らは警告の鐘を聞くと扉を閉め地下室に逃げるように訓練されているから、「恐怖そのもの」を目にしたことは無い。目に見えない恐怖ほど、恐ろしいものは無い。

 この辺の「作り物」と「恐怖」の関係を、シャナハンは、村の第一世代と第二世代、そして映画と観客、の間で重ねて描いてみせる。目に見えない恐怖は、作り物でも、恐ろしい。目に見える恐怖は、作り物であれば、恐ろしくない。そして、作り物でない恐怖は、目に見えても見えなくても、恐ろしい。

 主人公の婚約者、アイビーが「目が見えない」という設定であるのは、このへんと関係があるのであろう。彼女にとっては全ての恐怖は目には見えない。見えるのは核心だけだ。刷り込みのあとに父親から真実を告げられ、森に不安ながらもいどむことができるのは、もちろんルシアスへの愛からであるのと同様、彼女が目が見えないからである。しかし、もちろん、森の中で彼女を追うのは「本物の恐怖」であるのだが、それに「勇敢ゲーム」のように手を広げて背を向け、やりすごすことができるのもまた、おそらく彼女が目が見えないゆえの勇敢さがあるからなのだろう。何かを眼で見てしまうから、われわれは惑うのだ。

 また、目の見えないアイビーだけが、第二世代の中の「真実」を知る存在となるのも興味深い。ウォーカー、というファミリーネームを持つ彼女であるからこそ外界との塀にたどり着くが、塀を越えた向こうの現実を実際には見ることは出来ない。けれども、彼女は「真実」を知っている。目に見えない真実―なんとも、示唆的ではないか。

 文学ではよく、森を深層心理と結び付けて考えるので、案外、心の中の恐怖(すりこまれた恐怖)に打ち勝てずに逃げ出すもの(アイビーを捨てて逃げた第二世代たち)と、作られた恐怖にも逃げ出さず、本物の恐怖(それは、人間の醜い部分とも言い換えられる)と対峙したからこそ、アイビーは打ち勝ち、目に見えない真実にたどり着いた、といった解釈も成り立つのかもしれない。

 が、私はどちらかといえば、文学的意味と言うよりも、シャマランが「サイン」を踏まえた「恐怖の提示」について考えた結果が、ストーリーとなって形をなしたのだと思っている。恐怖が「作り物」だとわかった後の森での恐怖の盛り上げ方(ブレアウィッチを意識したと思われる)などが、そのよい例ではないか。

 また、アーミッシュエホバの証人的な、宗教的禁忌を持った独特の宗教、生活形態を思わせる場面は、彼の「シャマラン節」に利用されただけで、そこに論じるほどの深い意味はないと私は思っている。そもそも、映画撮影中の監督やクルーなんて、いつもこの映画の観客のような状態であるはずで、シャマランはそれを、自分の節に利用したに過ぎない。

 恐怖の見せ方と、その巣くい方について、シャマランがもっと考え、咀嚼し、また次の新たなシャマラン節映画を作ってくれることを、私は楽しみにしている。


映画として 8/10
シャマラン 10/10 (よくできました。失敗から学びましたね)←担任の先生風