「呪怨」日本版

怪物と戦うものは、その過程で自分も怪物とならないよう気をつけねばならない。深淵を覗き込むときその深淵もこちらをみつめているのである。−ニーチェ

 サム・ライミがほれ込んで清水監督本人にメガホンを取らせリメイクした「呪怨」−サム・ライミの心を捉えたものはなんだったのか、と考えをはせながら、テレビ放映版を見た。合間にCMをはさむこともあって、ホラー映画的な怖さは半減したが、何が日本人の心を捉え、サム・ライミの心を捉えたのかが見えたような気がした。

呪怨」にはストーリー的なアラは多いけれど、確実に貫いているテーマがある。それは、「覗くこと」と恐怖の関係だ。

 主人公のリカはボランティアに来て聞いた物音で、(わざわざ上がっていく必要すらないにもかかわらず)二階を覗いてしまう。そこに住んでいた家族の妻は、二階を、そして押入れを覗いてしまい死んだ。夫勝也の妹は、ドアののぞき穴から兄の姿(を借りた怨霊)を覗き、布団の中を覗いて恐怖を呼び込むし、リカはラストで、指の隙間から覗くことで、すべての恐怖を理解してしまう。閉じられている何かを、見ずに済まされる何かを「覗くこと」−それが恐怖の基本概念なのだ。※1

 それは私たちが子供のころホラー映画を見るときに、そしてお化け屋敷に入るときにかならずといっていいほどやっていたことだ。両手で顔を覆い隠し、さも「怖くて見たくない」という様を呈しながら、指の隙間から薄目を開けて見ている、あれである。
 恐ろしいと思っているのに、わざわざ覗いてしまう。それは、私たちが猟奇殺人の本やサイトを見てしまったり、オカルト番組をからかい半分に見てしまったりするのと、本質的には同じことだ。

この映画はまた、私たちが指の隙間から覗いているときに、「かれら」もまたこちらを覗いていることをも描いている。ドアの覗き穴からまっすぐに見据える勝也=悪霊、階段の上の手すりの隙間から下を覗き込むトシオ・・・そして恐怖が「覗くこと」で実態を表すことを理解したリカの下に、「かれら」は降りてくるのだ。

怪物と戦うものは、その過程で自分も怪物とならないよう気をつけねばならない。深淵を覗き込むときその深淵もこちらをみつめているのである。

 これはケスラーの「快楽殺人の心理」にも引用された有名な言葉であるが、リカはまさにこの禁忌を犯し、降りてきた彼らに摂り殺されることで、彼女もまた「かれら」の一人と成り果てるのである。

 おわかりだろうか。これは、決してなにかオカルト的な物語というだけでは終わらない。私たちが「猟奇殺人サイト」を見て「怖いね」といっているそのとき、「惨い死体」を見ているそのとき、その恐怖もまたこちらを覗いているのだ。その恐怖は猟奇殺人者その人であり、われわれの心の中の闇の深淵でもあり、死や痛みそのものでもある。「かれら」の方がわれわれを覗いているのだ。

 この覗くこと、からの恐怖感というある意味恐怖の真髄のようなものが描かれていることに、ライミは反応したのではないか・・と思いつつ、もうひとつ「アメリカ的な」ホラー要素にも思い当たった。それは、映画を声を上げながら、ポップコーンを投げつつ見る、アメリカ人特有のお祭り的ホラー映画の見方である。ジェイソンしかり、フレディしかり、テキサスチェーンソーしかり。アメリカ人は、静かに息を凝らしてみるだけではない。

「ほら!うしろ!そこにいる!そこ!そこ!いっちゃだめ!あーー!!」

 急に出てきてドッキリ、やじわじわ恐怖をもリあげるタイプでなく、観客にはわかっているのに主人公にはわかっていない、思わず声が出てしまう!というアレである。日本版「呪怨」はまさにこの多用であった。鏡やガラス、エレベーターの外にうつる悪霊の姿を、日本人はただ固唾を呑んで見つめるだろうけれど、アメリカ人なら間違いなく「オーノー!イッツカミング!」と声を上げるに違いない。それは最近のアメリカホラー映画では見かけなかった、(じわじわ型やドッキリ型が多いように思う)ホラー映画(しかも、B級の、もしかしたら懐かしき80年代ホラーかもしれない)の基本形である。ライミはその懐かしい基本形を、そこに見たのではないか。

「覗くこと」から来る本質的な恐怖と、何か懐かしさを覚える白塗りで「そこ!そこ!」な登場の仕方を見せる怨霊。その二つがライミの心をわしづかみにしたに違いない−そんなことを考えた二時間であった。そしてライミのエッセンスを取り入れ、あの白塗りをよりリアルにしたであろう特殊効果で作り直されたハリウッド版「呪怨」が、ますます見たくなったのである。

※1 ライミ映画では「閉じられたものを開くこと」というのがやはり恐怖の一様式として定着している気がする。それは「覗く」ということと、同一視できるように思われる。