「ターミナル」 (2)風刺として読む

「ターミナル」 (2) (※批評ですので、ネタばれが含まれます)

 ターミナル、の基本構造は、東欧からの素朴で純粋な男が、こりかたまったアメリカ(の縮図空港)にさわやかな風をふかす、というものだ。このヨーロッパ・アメリカ間での「新しい風・さわやかな風」という図式は、「エイジ・オブ・イノセンス」(イーディス・ウォートン原作 ヨーロッパに長年住んでいた女性が、NY社交界に新しい風を吹かせるも偏見に縛られる話)や、「鳩の翼」(ヘンリー・ジェームズ原作 イギリス人・ヨーロッパの中に新しい風を吹かせる不治の病に冒されたアメリカ人女性)など、文学・芸術の世界では繰り返し使われている構図である。
 また、広く言えば、「どこからか誰かが現れて、みなを変えて去っていく」というのは、スピルバーグE.T.であり、もちろんアメリカお得意のウェスタン「シェーン」の構図でもある。

 これは、常に「すばらしい魅力を持つ誰か」が「何か腐敗したもの」を変え、何かを教えて去っていく、という「アメリカン・ヒーロー・(ヒロインでもよいが)ファンタジー」の基本構造である。それでは「ターミナル」では、誰が何を変え、何を教えたのだろうか。そして、何が腐敗していたのか。

 主人公のビクターがまず周囲を驚かせるのは、彼が「空港で待つように」言われたままに、「空港でいつまでも待っていること」だ。局長代理ディクソンは「逃げようと思えば逃げられるのに、なぜ逃げない?」と本音を漏らし、ビクターをわざと逃がそうとまでする。何かといえば二言目に「法が・・」と難しい法律用語を並べ立て、法をつかさどる側のディクソンが、保身のためには法を破らせようとする。そしてまた、彼が「人間み無く」法に固執する一方で、ビクターが法の抜け穴をうまく使って、人助けをしてみせる。
 「ターミナル」というミクロコスモスの中で描かれるアメリカは、「道で転んだからその道を作った市を訴える」ような事が日常茶飯事の、超司法国家アメリカの暗部でもあるのだ。

 ビクターが友情を育むメンバーは、インドで犯罪を犯し、アメリカに逃亡して二十年以上になる「インディアン」(インド人)グプタや、メキシコ系のエンリケ、黒人の荷物係など、いわゆるWASPではない「移民」たちだ。
 そもそも、空港で働く登場人物の中には、ディクソンと、局長本人以外ほとんど白人がキャスティングされていない。ターミナルが、アメリカのミクロコスモスであるなら、これは、そのまま多くが有色人種の「移民」でなりたっていながら、その統治にあたっているのは白人である、というアメリカの不自然さを映す鏡でもある。

 ビクターは当然白人であるのだが、国籍から不確かな状態の彼をはじめに受け入れてくれるのは、法の番人たち白人ではなく、有色人種の移民たち=庶民たちなのだ。そして同時に、彼をスパイだと疑ってみたり、また、「人が転ぶのを喜ぶ」といったことに象徴される「庶民」たちのささくれだった心を癒すのもまた、ビクターの優しさと純朴な明るさなのである。
 「買い物だけしかできない」ターミナル・・それは、そのまま「資本主義大国」アメリカを揶揄しているが・・・を支えているのは、彼ら「庶民」であるのだ。

 さて、この映画の感想で、よく目にするものがある。それは、ヒロイン役アメリア(キャスリーン・ゼタ・ジョーンズ)が、ビクターと心を通わせるのに、なぜ不倫相手の元へ戻ってしまうのか、というものだ。映画としては、おそらくビクターとアメリアがめでたしめでたし、といったほうが数倍盛り上がるのだろうが、なぜ、そうしないのか。それは、アメリアが、「典型的なアメリカ女」の役割を担っているからだ。それはヘミングウェイにも通じる、アメリカ女性への痛烈な批判でもある。
 強く美しく知的であり、奔放で、そして不幸な愛を抜けられない−そんなアメリアは、アメリカの男性たちが時に恐れてきた、気位が高く気が強いアメリカ女性であり、同時に、アメリカの男性たちがもてはやしうまく弄んできた、その奔放さとと精神的なもろさをも、象徴している。他のみなが、あのディクソンでさえ変化の兆しを見せるのに、アメリアだけは、変わらない。
 そこにスピルバーグや、ニコルの、アメリカ人女性への理解不能さ、恐れ、といったものを見て取ることもできるのだろうか。アメリカ女性のイメージは、あのヘミングウェイのころから本質的に変わってはいないのかもしれない。

 こうしてみると、「ターミナル」は「ファンタジックなヒーロー物語」でありながら、アメリカをターミナルになぞらえての、そこはかとない「風刺」の香りがするように思う。そこで腐敗していたのは、「自由の国」でありながら、法律にがちがちに縛られ、庶民と上層部が完全に分離した、「メルティングポット」(融合したもの)でなく「サラダボウル」(さまざまな人種が別々の場所にいる)な社会であり、そしてビクターが教え、変えたのは、「なによりもまず、人間であること」「希望」「0から作り上げること」「待つだけでなく、行動すること」などだ。
 そしてなにより「何かを教え去っていく」のがアメリカ人ではない未知の国の人間であること、また、モデルのメーハンがどちらかといえば「とどまってしまったこと」で有名になったのに対してこのストーリーが「とどまった中で回りを変えていくこと」に焦点を置いたことが、私にはなにか少し「アメリカ批判」的なものを感じたように思う。

 おもしろいことに、原案のニコルは、ニュージーランド人であって、アメリカ人ではない。スピルバーグの常套構図を用いながら、ハリウッドに「缶詰」になってしまったニコルの、いつものさりげない風刺コメディのひとつとして、この「ターミナル」も数えることができるのかもしれない。

 最後にひとつ、さりげない「風刺」を感じさせつつ、今までのアメリカの国としてのあり方を完全には批判していないのだな、と思わされた点がある。それは、ディクソンがさんざんの失態(しかし法を守った上での失態である)の末にもかかわらず、昇進している点だ。問題点はあるものの、その「あり方」はアメリカを守ってもいる・・・そんなメッセージを、感じたラストであった。

追記として、小さなきづきを。

1. アメリアの不倫相手マックスは、「ヒドゥン」のマイケル・ヌーリー。すっかりロマンスグレーの、しかし品のいいおじ様となった。

2. ビクターがかばんを閉じてやる少女ルーシー、はスピルバーグとケイトキャプショーの間の娘、サーシャである。


映画として 8/10
コメディー・ファンタジーとして 9/10


(上に書かれているのは著者本人の主観であり、映画をご覧になった皆さんの感動をなんら否定するものではありません)