ヒストリー・オブ・バイオレンス

ザ・フライ」で知られるカナダ人監督デビッド・クローネンバーグによる、グラッフィックノベル原作のクライム・ムービーである。


 アメリカ、インディアナ州。平和な田舎町でダイナーを営み、家族と平和な暮らしを営むトム(ヴィゴ・モーティセン)。彼の店に強盗が押し入るが、トムはそれをあざやかな手さばきで始末する―まるでプロの仕業のように。
 一躍英雄としてマスメディアの寵児となった彼のもとに現れたのは不気味な男、フォガティ(エド・ハリス)。町に出入りし始めるマフィアの姿と、トムの別の顔を知るというフォガティがトムの平和な毎日に影を落とし始める・・。


 「ヒストリー・オブ・バイオレンス」−このタイトルは、そもそもは犯罪の前科や前歴などを示す。
舞台はインディアナ州アメリカでもっとも平和でアメリカ的だといわれる州であり、そして主人公の名前トム、は平凡であるのと同時に、トム・ソウヤーや「怒りの葡萄」のトムとして、アメリカの善意を示す名前である。
この「インディアナ州」の「トム」の店に訪れた「暴力」−強盗―から、新たな「ヒストリー・オブ・バイオレンス」暴力の歴史と、トム本人の「前科」としての暴力の歴史が幕をあける。

 そもそもこの映画の始まりは、監督の手腕がさえる長回しによる二人の強盗(というより無情な殺人犯と呼んだほうが妥当であるが)の犯罪シーンに始まる。金を奪うための殺しよりももっと根源的なもの―水を奪う、という行為の中で小さな子供まで情け容赦なく手にかけるこの冒頭のシーンは、内容と関係がないように一見見えるが実はその全くの逆である。この冒頭の場面こそ、「ヒストリー・オブ・バイオレンス」の始まりであり終わりである。

 ダイナーで起こった強盗に対し、他者を守るための正義の鉄槌として下されたトムの暴力は、彼の「ヒストリー・オブ・バイオレンス」を呼び覚まし、ひきつける。彼がかつて究極の暴力として目玉をえぐりだした男フォガティの復讐心は、彼の家族にまで危険を及ぼすが、トムが家族を「守るため」に始めた暴力はいつのまにかたがを外し、ただの「バイオレンス」となりはてる。彼の過去の「ヒストリー」は彼の現在となったのである。
 
 さて主人公が全ての「暴力」を終結させるために行うのは、全ての殺人の始まり―聖書に描かれたカインとアベルそのままの「兄弟殺し」である。ダイナーの客たちを守るために行ったあの正当防衛からは遠くかけ離れた大量殺戮の挙句、兄殺しはあっけなく完了する。主人公の過去は抹殺され、彼の「バイオレンス」もまた、暴力の完全体となって終了する。正当防衛−それは許された暴力として知られている−は、もっとも許されない暴力−人類最初の殺人であり最も忌まわしい肉親殺し−と形を変えて、この映画の「ヒストリー・オブ・バイオレンス」は幕を閉じるのである。

 一方家族のものたちの暴力への反応もまた、見逃してはならない。高校の悪童たちの挑発に知性で応対していた平和主義者の息子にもこの「バイオレンス」は飛び火する。「バイオレンス」はこともなげに思春期の青年へと感染し、広まっていく。

 妻は夫の過去に怒りをあらわにし、夫をまっこうから拒絶しようとするが、夫からのレイプじみた性行為は受け入れてしまう。いわゆる「愛の行為」を獣じみた暴力としても受け入れてしまうのは、もちろん妻側にも潜在的なバイオレンスが眠っているからだ。クローネンバーグはこの唐突に見えるラブシーンで、妻側の暴力への反発と受容を象徴的に描き出す。

 全ての暴力を「完了」させ、食卓に戻るトムを、最も小さな娘がはじめに受けいれ(彼女にとっては暴力は小さなときからの日常となった)、暴力という新たな手段を知った息子が、そしてその潜在的な存在を認識した妻が受け入れる。作品のラストは静かでありながら、実は一番恐ろしい場面であるかもしれない。家族全員が、トムという名の「バイオレンス」を、食卓という日常に受け入れてしまったのである。

 こうして暴力は当初の拒絶反応を沈静化し、日常の一部としてとして沈んでいく。
そして食卓でトムという名の暴力を受け入れた小さな娘が、また別のどこかで、水を手に入れるために何の容赦もなく撃ち殺されるのである。

それが、クローネンバーグの描いた、終わることのない「ヒストリー・オブ・バイオレンス」なのだ。