レディ・イン・ザ・ウォーター

 私はシャマランに甘い。それは、彼が短編小説として映画を扱っているからだ。

 「短編小説とは、暗闇でのキスのようなものだ。」−ホラーの帝王スティーブン・キングは、いくつものすばらしい短編を発表しているが、その彼の言葉である。暗闇でのキスはもちろん驚くものであるのと同時に、その暗闇の中に誰がいるのかを探り当てていかねばならない。

シャマラン映画はいわゆるラストでのどんでん返し(暗闇のキス)で知られ、それを期待した観客や批評家と、そこにとらわれながら抜け出そうとあがくシャマランの姿勢がどうにもかみ合わず、前作「ヴィレッジ」でも賛否両論を、その前作「サイン」ではとりわけ期待を裏切ったと言われてきた。
 さてではこの新作はどうかといえば、「シックス・センス」のシャラマンという目から抜けきらない観客には、まさにとるにたらない作品に見えるだろう。少なくとも「ヴィレッジ」や不評作「サイン」にすらあった「どんでん返し」はほとんど無く、物語もおとぎ話の色が濃い。

しかし、暗闇の中にいる何か、を探らずにキスだけを楽しもうとするのは間違いというものだ。この映画にはいくつかの暗闇の層がある。

第一の層は、レディ・イン・ザ・ウォーターとして現れる彼女の名が「ストーリー」ということに現れている。もちろんその意味は「物語」だ。

これはクリエーターの中から湧き出たストーリー=物語の昇華の物語である。

「ストーリー=物語」はプールサイドに残された様々なものを水の中に蓄えながら、姿を現す「そのとき」を待ち、そして空からの迎えを仰ぐ。物語をつむぐものは、心の中に様々な日常を取り込み、それを暖める。そしてそれはやがて一つの美しいストーリー=物語となり心の泉からおずおずと顔を覗かせる。

 さて作品中の水の精ナーフ・ストーリーが空へ飛び立つために必要とするのは記号論者(シンボリスト)・守護者(ガーディアン)・職人(ギルド)・治癒者(ヒーラー)・器であるが、ストーリー=物語にとって最初に必要となるのは言葉という記号だ。心を物語にするにはまず言葉へと変換せねばならないからである。
 シンボリストがストーリー=物語を言葉にし、傷を受けるたび(それは校正のようなものを表しているのかもしれない)ギルド(技術を持つ人々)の手助けのもとヒーラー(主人公であり、このプールの管理者、つまり物語をつむぐもの本人)が癒すことで、ストーリー=物語は本来の、ないしそれ以上のものへと再生していく。
また、彼女を受け入れる「器」を演じているのが監督本人であることも興味深い。物語が生まれる泉の器を、シャマラン本人が演じているのだ。そしてストーリー=物語を守る者の目の前で、ストーリーに傷を負わせたものは、他の同じ側の者に捕食され消え、ストーリー=物語は鷹とともに飛翔していくのである。

 一方、主人公クリーブランドがアパート内での「役割」の人物を探す際、彼は初め自称「映画評論家」の男にアドバイスをうける。が、それぞれの役割の「映画の展開的」ステレオタイプに凝り固まったこのアドバイスは、後に全くの決めつけにしかすぎないことが明らかになり、この「映画評論家」は「映画的展開」に目を曇らせたまま、作品唯一の犠牲者になる。彼のにごった目では、ストーリー=物語の真実を見極めることはできなかったのである。
「映画評論家」のくだりに関しては実にまっすぐではあるものの、「ストーリー」がつむがれ、出来上がっていく過程をおとぎ話として描き出すというのは、まさに「短編小説」さながらである。

 この映画の第二の層、それは主人公の過去にヒントがある。クリーブランドは妻子を強盗に殺されたという過去を抱えた元医師(=ヒーラー)であるが、その彼を中心として、ストーリーを空へと「帰す」ためにアパートの住人全体が共同体を作っていく。住人たちがお互いを知り、協力し合うことでまるで子供のように弱く純粋なナーフ・ストーリーは守られ、元の世界へと帰っていくことができる。それは、クリーブランドの妻子が彼の留守中に惨殺されたのとはまさに対照的だ。
共同体が作られることで、子供(のような存在)は守られ、癒され、受け入れられ、そして汚されること無く帰り着くことができる―多種多様な人種、年齢の住民たちの共同体の中で純真無垢な存在が守られるという構図は、言わずもがな現代に必要とされている最も理想的な社会である。
ガーディアンが半身のみの力を蓄えているのは、残りの半身に弱者を理解する力を同時に持っていることを象徴しているからなのかもしれない。共同体の外の小さな草むらにさえ、狼たちは潜んでいるのだ。

 このストーリーという名の水の精を住民たちが空の(妖精の)世界へ帰す、という単純なおとぎ話の中で、シャマランは「物語の創造と昇華」というクリエイターとしての内面を描き、同時に彼の住んでいる現代社会への小さな提案をしてみせている。

 アジアの老女が語る民話は、ユングが語る全ての人類に共通する普遍的無意識であり、創造はそこから湧き上がる。そしてその無意識の中で、人は皆つながっているのだ。