マルコビッチの穴 

「操る⇔操られる 人間の思考の穴」

 人間が主体的な生き物だと説明されれば、あなたは納得できるだろう。
人はモノローグな生き物だ。全てを自分に関連付けて考え、全てを自分のなかで解釈する。所詮会話の相手の言ったことも自分で解釈しているのだから、その返答も結局「自己」にに対してで、それなら結局のところ、会話なんて全て「自己 対 自己」で、本当の意味での他者なんて、存在しない、
ということになる。他者は、頭の中に入っては、吐き出され、入っては、吐き出される。

 そう、今日の映画は、「マルコビッチの穴」。ずいぶん前に映画館で見たのだが、その真意を測りかねていた映画である。


 主人公グレイク(ジョン・キューザック)は人形使い。が、生活に困り、あるビルの7と1/2階でファイル整理の仕事をすることにする。ある日、彼は会社の壁に不思議な穴を発見する。その穴に入ると、俳優マルコビッチ(ご本人)の中に入り、自分の意識を持ったまま彼の世界を体験できるのだ。そして15分後、どこかのハイウェイに放り出されるというなんとも不思議なしくみ。これに味を占めた彼は、同じフロアの美女マキシンと、「あなたもマルコビッチに変身できる」という副業をはじめる。

グレイグの妻のロッテ(キャメロン・ディアス)は変身を体験したことで、自分がレズビアンであったことに気づき、マルコビッチの体を借りてマキシンと愛し合うようになる。一方俳優マルコビッチは、自分がおかしくなっていることに気付き、原因をつきとめるのだが・・・


7 1/2階という脳みその情報処理場の中で、グレイグは俳優マルコビッチの穴を見つける。それはマルコビッチ本人の認知の穴だ。

 認知しては、吐き出し、認知しては、吐き出し、たとえ15分とどまったとしても、結局のところ他者は吐き出され(困惑気味の)マルコビッチが残る。マルコビッチ本人の穴に本人が入れば、当然全てがマルコビッチ!だ。それでなくても15分で吐き出してしまう他者が、よりによって自己であれば、美しい女も、ウェイターも、その存在はただひとつ、「マルコビッチ!」これはエゴそのものでもある。

 ところが、「人形遣い」である主人公も含めて、ラストでは、入っては吐き出されていた穴への侵入者たちのなかにも、(映画を見たら分かるが)吐き出されずにとどまることの出来るものたちもいる。彼らはマルコビッチを子供のころから見てきたものたちーすなわち子供のころから入っていたものたちだ。

そう、つまり、しかけはこうだ。

所詮会話の相手の言ったことも自分で解釈しているのだから、その返答も結局
「自己」にに対してで、それなら結局のところ、会話なんて全て「自己 対 自己」で、本当の意味での他者なんて、存在しない。

 私は、こう書いた。しかし、ここに明白な間違いがあることに、お気づきだろうか。

 たとえば、人は言葉を使う。それはすなわち現代社会においては生きることそのものでもあるのだが、人と人は、言葉でつながっている。そして言葉は結局のところそれを使用している本人が編み出したものでもない。言葉をつかうとき、そこには目に見えない誰かが、必ず介在しているのだ。簡単に言ってしまえば、言葉を使うとき、あなたはその言葉を編み出してきた何千何万という人に、操られているのである。物を考えるにしてもそうである。何かを考えるとき、「自分で考えた」とはたして100パーセント言い切ることができるだろうか?たとえあなた自身で考えたにしろ、そのどこかで誰かから何がしかの影響を受けているかもしれない。それは本人にも分からないことだ。あなたは、あなたの知らないところで、誰か複数の人間に、操られているのかもしれないのだ。

 人間は確かに、誰かの言葉や行動を見聞きし、それを他者として吐き出している。思考する主体は確かに「自分」であるからだ。しかし、そこでは常に、吐き出されない他者が残る。言葉の中に潜む他者、かけがえのない自分の「経験」のなかに潜む他者、自発的な「行動」の中にひっそりとたたずむ他者。自分とは結局、かなりの数の他者が介在したことで成り立ち、動き、思考し、発話する生き物なのだ。人間にモノローグは、本当の意味では不可能である。、「自己」という個人は、実際は常に多重的で、大勢の他者から作り出された多重的なオーケストレーションを抱えているー人は、生きている限り、常に、どこかで、誰かに、操られているのだ。

 「マルコビッチの穴」は人間の認知と思考の図式ーそれは多重的な声の結果、知らない間に誰かに操られた結果であり、決して「自己一人」でなしとげることのできるものではない−を「ジョン・マルコビッチ」を使って具体的に映像化してみせた。映画の中でマルコビッチが穴を覗くとき、彼は自分という唯一無二の生き物が、常に誰かに操られていたことに気づく(すなわち、自己という存在自体がはじめから大勢の者の寄せ集めであったことを知る。)グレイグが入ったのはマルコビッチの穴であったが、どこかにグレイグの穴や、ロッテの穴や、私や、あなたの穴があるかもしれないのだ。

 マルコビッチの子供時代に出入りしていた他者たち、彼らは吐き出されずにとどまることの出来る他者だ(しかもぞろぞろと!)。それは彼の真髄にいる、彼の芯を形成している他者たちである。そして、主人公グレイグが吐き出されずにすむのも、彼の入った相手を形作ることになる他者であるからだろう。なにせ彼は「人形遣い」なのだ。情報を整理することのできる人形遣いとは、なんと理想的な定住者であることか!

 この映画の最もすばらしいシーンは、冒頭の「アベラールとエロイーズ」の人形劇であろう。壁に隔たれた別々の部屋でくねくねと身悶える二人の人形をあやつるグレイグ。
 アベラールとエロイーズは実在の人物であるが、神学者のアベラールは少女エロイーズと恋におち、魂も体も愛し合うも、スキャンダルとなりアベラールは私刑として去勢される。エロイーズは出家するのだが、二人は会えなくなってもおびただしい書簡をやり取りし、言葉によって「魂」や「肉」の愛をも満足させる。(岩波から、まだ出てますかね?書簡集。これをすすめた私の世界史の先生って、なんだったんでしょう?)会うことの出来ない二人を動かしているのは、それぞれの頭の中にいるお互いという他者であり、書簡でやり取りされる言葉(多重の声を象徴する)そのものだ。そんな二人を、グレイグが糸で操っている。(二人だけの恍惚の愛も他者が操っているのだ!)
 グレイグがあの会社に勤め、あの穴を見つけ、定住者となるのは、まさに運命としか言いようがないではないか。

 穴の影響から最終的に逃れ、愛を見つけて幸せになるのは、マキシンとロッテの二人だ。マキシンは、穴そのもの=他者の介在 よりも 金や仕事といったものに価値を置く実存的な人間であるし、ロッテは、動物との暮らしから、穴に入ることで他者=人間社会を知り、人として目覚める存在である。穴にはまる者たちは、つまりは逆説的に自我の強いものたちであったということか。

 さて、では最後に、これがなぜ「マルコビッチ」でなければならなかったかという点だ。
私は、彼が本物の実力派、しかも舞台出身のきちんとした俳優であったからだと思う。
俳優とは想像力と経験がものをいう仕事だ。今までに出会った人々を消化し、役柄に生かす。
読んだ本、見た映画、全てはいったん吸収され、吐き出され、マルコビッチという穴を通して、舞台やスクリーンという表層にあらわれる。
 「操る他者」の介在を最もリアルに表すことが出来る職業が「演じることー演じられること」を体現する俳優であり、
その名優の一人がマルコビッチであり、
そしてこのスパイク・ジョーンズ/チャーリー・カウフマンの原案の真意を読み取ることの出来たのが、また、マルコビッチであった。(原案段階からマルコビッチと決定していたらしい)
私は一人で勝手に、そう思っているのである。


結論

上に書いたようなことを考えずにも「奇想天外」「発想の妙さ」だけで楽しめます。350円で。

 ちなみに、「この映画、そんな意味ないよ。奇想天外なだけ!ナンセンスを楽しむものよ!」とおっしゃる方も多いかと思うのですが 私はどうしても、アベラールとエロイーズ、人形遣いという職業、マルコビッチ、71/2階(フェリーには8 1/2←映画作りの回想で、さまざまな人々の声を主人公が集約した感じの映画)、などが、見ている瞬間から気になっていました。
ナンセンスなだけにしては、装置が、知的すぎませんかね・・?