エレファント

 「エレファント」  何を伝えようとしているのか

 コロンバイン高校で1999年に起きた高校生乱射事件をご記憶の方は多いと思う。最近ではかのマイケル・ムーア監督が、この事件を引き起こした原因を「悪影響を与えるゲームやテレビ、音楽」ではなく、「銃を容認するアメリカ社会そのもの」であると主張する「ボーリング・フォー・コロンバイン」が話題となった。「エレファント」は、「グッド・ウィル・ハンティング」のガス・ヴァン・サントがこの事件を題材に作り上げた映画である。

 映画は乱射事件が起こるまでの数時間を、犯人の二人の少年を含めて、その場に居合わせた生徒達の行動をそれぞれに区切りながら、追って行く手法を取っていく。彼らが殺される、または犯行に及ぶに至る場所にたどりつくまでを、一人づつ描き、そして事件が起こる、という構造である。

 実はこの作品は脚本と言うものはいくつかのキーワード以外は存在せず、全て俳優達(ほとんどがオーディションで選ばれた子供たちである)のアドリブで補われている。流れは説明してあるものの、演技そのものがアドリブ(犯人の少年が自室で弾くピアノのシーンが印象的なのだが、それすらも)らしい。

 これは、それだけ演技者の「現実」を引き出し、アメリカのティーンエージャーの「真実」を映像に映し出すのに成功しているが、同時に、監督ガス・ヴァン・サントが伝えようとしているのは何か、をぼやかす意図も感じられる。ヴァン・サント自身は、「それはこの映画を見た観客にゆだねられる」と言っているが、その意図の中で、こぼれでてしまった監督本人の心情、これについて少し語ってみたいと思う。

 それはなによりもまず、その映像における「構図」にある。たとえば、高校のグラウンドのあちこちで授業や球技をしている、しかしその真ん中がぽっかりと開いている。内気な少女がたどりつく、一人ぼっちの体育館のがらんとした冷たい空間。アル中の父親を持つ青年が一人で涙をこぼす、使われていない教室のだだっ広さ。たくさん人がいるはずの学校で、歩く生徒を追うカメラがほとんど他の生徒の姿を捕らえない。

 「がらんとした空洞」−hollow という表現があるが、まさにそれを象徴したかのような構図の連続である。その空洞は、社会のミクロコスモスであるといわれている小さな社会「学校」が実は空洞であり、虚無であり、それゆえに無防備であることを象徴しているのと同時に、生徒たちが実は学校というさも社交的な場にいながら、実は孤独である、ということを示しているように思える。
 Hollowな場所に集う、hollowな子供たち−アダルトチルドレンの担わされる役割の中で、「隅の子供」と呼ばれる、いつも部屋の隅に立ちまわりのものと本当にはかかわりを持たないことで自分を守る、というのがあるが、この生徒たちが、実は皆、「隅の子供」なのではないのか・・・そう、思わせる構図なのである。

 また、演技や脚本ではなく、登場人物たちの設定そのものに見ることのできるものもある。
 アル中の親を世話するのに忙しく、学業がままならない子。美しく、それを維持するために食べては吐くを繰り返す少女たち。「異性愛と同性愛」について話し合う会。友達のいない孤独な少女。学校ではいじめられている少年が銃を手に見る「力の象徴」ナチの映像。燃え盛り人が血まみれで逃げ惑う中をまるで「普通のこと」のように歩き回る黒人の少年。

 その設定そのものの中に、アメリカへの疑問が投げかけられているように思えるのだ。それはムーアのような直接的な表現ではなく、「これはすべてがアドリブの映画なんです」ということで、きれいに隠されてしまっている。

 けれど、やはりそこに、病んだアメリカを真っ直ぐに見ているガス・ヴァン・サントがいる。私にはそう思えた。

映画として 8/10
映像作品として 9/10
手法として 10/10

追記:「エレファント」のタイトルは、製作時に会社側に「銃乱射事件を扱うのなら、こういうつくりの映画ならよい」と例に出された映画のタイトルである。1989年のアメリカテレビ映画「エレファント」で、北アイルランド紛争を扱ったもので、できはあまりいいものではないらしい。

 「象」は普遍的には「力への欲求」のシンボルで使われることが多く、案外この映画の真実を言い表しているのかもしれない。