「嗤う伊右衛門」 (3) ズレと日本と

 ルースベネディクトの「菊と刀」については、一度はどこかで聞いたことがあるかと思う。1944年に出版されたこの本を書いたのは一度も日本へきたことのないアメリカ人であるが、その洞察力はすばらしく、「日本の文化の型」を鋭く語った名著である。それでは「菊」と「刀」とはなにか。それは、ベネディクトによれば、偽装された自由と、自己責任の象徴であるらしい。

 岩に夫である伊右衛門から渡されたのは「菊」の櫛であった。岩は髪をきれいに撫で付けていないというので、又市に一言いわれたこともあったのだが、狂乱した岩もまた、その髪は乱れたままであった。その岩に渡されたのが「菊」の櫛である。
 偽装という言葉がわるければ、支えられた自由と言い直せばよい。菊の花はその大きく壮麗な花弁を、しっかりとしたがくで支えている。岩の「正しさ」は、社会的な枠を超えたとき、ただの「自由」な意思でしかない。彼女にとっての正しさがその社会に所属する全ての正しさであるとは限らず、それは相対的なものであって、それぞれの自由な思いだけでは推し量れない。彼女の突出した正義=自由意志 は彼女を狂乱に導いた。その彼女に、それを「そろえる」菊の櫛ーいわば菊のがくが置かれたのだ。

 一方刀を取らない侍であった伊右衛門がついに刀を取るのは、ひとえに「責任」を果たし、全ての決着をつけるためであった。自分の人生を流れに任せ、自分の思いを口にしなかったことが、この結末に導いたと悟ったのであろうか。彼はこの結末を呼ぶにいたったすべての要因を斬り捨て(それには岩も入るのだ)、自ら家という枠組みを解体して、桐の箱の中へと身を横たえる。己の「責任」の及ぶのすべてを決着させ、眠りに付いた伊右衛門の抱くのは、刀であり、彼が「もらった」岩なのである。

 それではこの二人が死して本物の夫婦となることに、いったいどんな意味があるのか。と考えてみると、そこに日本本来の姿への回帰であるとか、国粋主義(いい意味で)などというのが見え隠れするような気もするのであるが(同時に、社会への転倒の物語でもあるのが興味深いが)、しかし、ここは私にははっきりと結論がつけられないように思う。だから今日は「気づき」であると述べた。

 これに結論をつけるのは、京極作品のファンであり、日本文化に造詣の深いだれか別の人であるべきだろう。


最後に、タイトルになっている伊右衛門の嗤い、について述べておこう。
これが笑い、ではなく嗤い、であるのは、それが嘲笑であり、冷笑であるからだ。それは「してやったり」のわらいであり、あるいは、「やりとげた」のわらいであり、そして外国人が口にする日本人らしさのひとつ、真意の測りかねるわらい、である。

 そもそも人は、なにか思ってもみなかったことがおこったときに笑うものだ。
転ぶはずのない人が転んだときに思わず出る笑いなどが、その典型であろう。
あるべく世界に偶発的に起こる「ズレ」ーそれが笑いの要因である。

伊右衛門は嗤う。結界の中にいたはずの自分が、結界を出、刀を握っている。
枠の中ではとうてい逆らえないはずの上役、喜兵衛を、斬り捨てた。
そしてなにより、手に入らないはずであった岩を、「もらった」。

 また、又市は二人のむくろを前にして、わらい声を聞く。それはあるべく世界から解き放たれた二人のわらい声だ。
私は最初に、この話が「ズレ」によってなりたった物語であると述べた。
私は思う。岩と伊右衛門の後ろで、京極夏彦もまた、嗤っているのだ。

この日本では知らぬもののいない話にズレを生じさせ、できあがった物語の見事さに、
それを純愛だ、と涙するわれわれに、
そして、そこに真意をよみとろうと儚くもがく、灯りに群れる蛾のごときわれわれに・・・