オペラ座の怪人 (1)

オペラ座の怪人 (1) エロスとアガペーの狭間で

1870年代パリ、オペラ座プリマドンナのカルロッタ(ミニー・ドライヴァー)に幕が落ちてきたりと奇怪な事件が続くのに腹を立てた彼女が降板。代役は「秘密の先生」に歌の指導を受けたというバレエダンサーのクリスティーヌ(エミー・ロッサム)となった。その彼女を見つめていたのは、実は幼馴染のラウル子爵(パトリック・ウィルソン)。しかしもう一人、彼女をその黒い目で見つめるものがいた。彼こそがファントム・オブ・ジ・オペラ(ジェラルド・バトラー)・・・・


 いわずと知れた大話題作、「オペラ座の怪人」である。実は筆者はNYでも日本でもチケットが取れず、この舞台を一度も目にした事が無い。そのため、舞台との比較といったものはできないことを最初にお断りしておきたいと思う。しかし同時に先入観・思い入れといったものも無縁であるから、この映画を、単純に芸術作品として評価できるのではないかと思う。

 さて、知り合いに「小学三年生の息子ともう四回も映画を見に行った」という怪人フリークがいる。私はこの映画を見て真っ先にこう感じた−「これはけっして子供には見せるべき映画ではない、ましてや繰り返しなど!」それは、あまりにも「官能的」だからだ。
 
そもそも「オペラ座の怪人」というのは、ガストン・ルルーの原作では、ゴシック色の強い推理物(エドガー・アラン・ポーなどがそうだ)といういでたちで、後半はオペラ座の怪の謎解き、といったつくりであったように思う。が、ミュージカルは「愛の物語」だけを抽出し、そこに色を加えた−その色が、「官能」であることを、私は今回初めて知ったのである。そしてこの映画は、その「官能」を、よりひきたてるように演出してあるのだ。

三島由紀夫の「音楽」という小品がある。妻が「音楽が聞こえないんです」と男が精神科医のところを訪れる話だが、それはそのまま性の隠喩だ。最後には「音楽が聞こえるようになりました、ありがとうございました」とストーリーは閉じるのだが、これで夫と妻が性(すなわち生の、でもある)の喜びを知った、ということを現している。では、「オペラ座の怪人」はどうだろう。

Silently the senses abandon their defences . . .Slowly, gently night unfurls its splendour . . .

翻訳には思い入れのある方もいるようなので、あえて訳はつけずに置く。しかし、初めてファントムの元に連れてこられたクリスティーンにささやかれる歌Music of the Night は、まさに「音楽」そのままの歌なのだ。

Purge your thoughts of the life you knew before!

Open up your mind, let your fantasies unwind, in this darkness which you know you cannot fight -the darkness of the music of the night . . ..


君の今まで知らなかったこの「夜の世界」で「音楽」を紡ごう、といういわばプロポーズを繰り返すこの歌詞は、実に官能的で扇情的だ。そしてその歌詞を裏付けるべく、どちらかといえば清純な感じのクリスティーンがいつのまにかアイメイクの強い夜の顔に変貌していて、太もものガーターベルトもあらわに小船を降りると、うっとりと怪人に身を任せ唇を開く。その後ろの幕の後ろには下着姿にガーターベルトをつけたクリスティーンの木彫りの像が隠されている・・・・

また、後半においてファントムとクリスティーンで歌われるThe Point of No Return も、上の歌を受けてのより官能的な歌だ。

no second thoughts, you've decided, decided . . .
Past the point of no return -no backward glances:the games we've played till now are at an end . . .

no use resisting: abandon thought, and let the dream descend . . .


私に、夢に身を任せよ、と歌うファントムと、絡み合いながら袖を落とし肩をあらわに歌うクリスティーンは、やはり最高にセクシーに演出されている。

クリスティーンはこの、官能的なファントムの「夜の音楽」とラウルの純粋な愛情の狭間で揺れる。

ファントムがストーカー的であるとか(笑)クリスティーンが尻軽に思えるとか(笑)、そんな声を映画以前から聞いたこともあった(※私の意見ではありません)。

 しかし、生身の女性=クリスティーンが、いわば「夜の愛」と「昼の愛」―夜の愛は実は一方的な所有によるエロス愛(=パッション・受難の意でもある)であり、昼の愛は互いに必要としあうアガペー愛である―の狭間で揺れているのだ、と思えば、そしてファントムが男性の願望を背負った存在であると思えば(自分好みの女性を育てるというそれは光源氏と育ての娘紫の上を髣髴とさせる―しかしこの二人は最終的には結ばれることを考えれば、ファントムはあまりに哀れでもある)、そういった見方も薄まるかもしれない。

 そして同時に、これが作曲家(演出家でもよい・ロイド=ウェーバー本人でも)と、彼が手塩にかけた歌姫との物語だと単純化してもいい。歌姫はその一曲でスターダムにのしあがり、そして作曲家の手を離れ、時の人となり、誰か他の者の歌姫となってしまうのである・・・。

 芸術作品として、その「美」ではなく内容に関して私が言えるのはこれくらいしかない。明日はその美しさ、出演人の素晴らしさについて語ろうと思う。