「マルホランド・ドライブ」 

マルホランド・ドライブ」 メタ・ムービーの視点から

「マルホランドドライブ」−かのデビッドリンチの作品である。


 ハリウッド。マルホランドドライブ(という場所)で起こった衝突事故から生き延びた一人のブルネット美女。彼女がふらふらとたどりついた先には、休暇中のおばの家を預かっていた、ベティ(ナオミ・ワッツ)というブロンドの女性がいた。やがて自分の記憶がないことを明かした女性に、ベティは同情し、二人の「彼女探し」のミステリーが幕を開ける・・・。


 かのリンチ作品であるから、妙なシーンもやはりあるし、難解なのはいつものことであるが、ストーリーとしては、これはわかりやすい物語とは言える。最後まできちんと見れば、ははーんそういうこと!位のことはわかる。(それはそれで泣けるラストなのではあるが)

 さて、そのストーリーについての解説を私はするつもりはない。私がここで述べたいのは、リンチがストーリー面だけでなく、この映画を メタ・ムービー として構成していることである。

 メタ がよく聞かれるのはメタフィクションという用語からだ。メタフィクションとは、小説の技法で、それがフィクションであること、あなたが読んでいるその小説が、小説であるということを余計に際立たせるようにする技法、ひいてはそれによって小説と現実の境界をあいまいにする・・という技法である。

 もっとも有名な例えはメルビルの「白鯨」である(「メジャーリーグ」でトムベレンジャーが彼女に読めと薦められ、漫画で読んでいたほど、難解な作品である)。主なストーリーの合間に、鯨に関しての博物学的知識が挟まれ、他の話が語られる。いわば小説の中にまた違う話が取り込まれていることで、「小説」というものが読者に余計に意識され、同時に、どこまでが物語でどこからが本当なのか?と疑念を抱かせる・・・つまり結局は、読者が非常に「私が今読んでいるのはフィクションなのだ(いや、否か?)」というのを意識するようになるのだ。最近の作品では、小説家が主人公である「ガープの世界」や、スティーブンキングの「キャリー」がその典型であろう。

 さて、話を元に戻そう。「マルホランド・ドライブ」では、映画は前半と後半に分けられ、同じ登場人物による、違う物語が展開される。(多少のネタバレは、許してね;;)ひとつの映画に二つの(つながらない)物語。この時点で立派なメタ・ムービーである。では、リンチがこの作品を意図してメタ・ムービーとして作ったのか・・と考えると、非常に興味深い証拠が次々と見当たるのだ。

 作品の舞台は、ハリウッド。虚構と幻想を作る世界、ハリウッドである。登場人物の一人は、まさに映画監督だし、あとは女優だ。
 そして、作品の転換点に現れる舞台と幕の引かれたステージ、「This is the recording」と叫ぶ司会者。
これは録画(録音)ですよ、と幕の引かれた舞台で叫んだ後に、後半が始まるのである。「あなたが見ているのは所詮映画、さぁ一回幕を引きますよ」と叫んでいるようなものである。 
 また、リンチ独特のメタファーとなる青い箱と鍵。これは強烈なメタファーであるから、ストーリーのほうから読み解いたらまったく別の意味合いを持つとは思うのだが、メタの視点から見れば、まさに「ゲーム機/ビデオデッキ」の役割を果たすものだ。ソフトが一本終わった、さぁ中をあけて、次のソフトへ行こう・・・。

 映画の中にもうひとつ「映画」を作り、同じ役者に違うストーリーをやらせることで、「これは映画だ・監督がすべてを動かしているんだ」と強調する。(現実には、同じ人物で違う物語なんてもちろんありえない話だ)幕を引いた舞台を見せ、これは舞台だ、ショウだ、と強調する。そして同時に、ストーリー的には、「現実」を強調して、映画は終わる。

 映画という虚構の中の現実・それを動かす監督という映画の中の神の存在・虚構を現実として捕らえることになる観客・・・複雑に構成され、計算されつくしたメタ・ムービーだと、私は思う。リンチは映画のための映画をつくったのだ。

 「Mulholland Drive」そのタイトルがなぜ選ばれたのか、私は知らない。しかし、それが、multiple など一連の「おおい・たくさん」を表す単語の、最初の語幹と似た感じがするのは、私の深読みのせいなのだろうか。

マルホランドドライブ公式サイト(英語)
http://www.mulholland-drive.com/switchboard.htm