「トークトゥーハー」(2)モノローグとダイアローグ

トークトゥーハー」(2)モノローグとダイアローグ

 さて、「トークトゥーハー」、私はこれを、男女の対話の物語として読んでみたいと思う。

※この先ネタバレとなります。御気をつけください。

 私がとても印象に残ったのは、昏睡状態の二人の女性、リディアとアリシアをバルコニーに並べ、男二人が楽しげに話しているシーンである。「彼女たち、何はなしてるのかな?」二人はそんな会話を交わしたりしながら、男同士の絆を深める。

まるで、われわれの普段の暮らしと同じではないか。

男たちは男たちと会話をする。女は、人形だ。男は女に気の向いた話をするが、女は人形だから返事はしないし、男はそれを期待しもしない。(耳を澄ませば聞こえるかもしれないのに!)男の対話(ダイアローグ)の相手は男だが、独り言(モノローグ)の相手は女なのだ。そしてもちろん、本当はモノローグに相手など必要はないのだ。

 ベニグノの行った性行為もまた、男女の性交の隠喩、いや、直喩である。男性の男性による男性のためのその行為から生まれるものは、ベニグノがどんなに切望しようと、「死」でしかない。モノローグ的な行為からは、何も生産されるはずは無いのだから。
 確かにベニグノはアリシアを、本当に大事に大事に、大切にしている。しかしそこにアリシアの意思は無い。彼女は美しい美しいお人形さんなのである。ベニグノはそれを愛と呼ぶ。モノローグとしての彼の愛は完璧だ。しかしアリシアからしたらどうだろう?

 マルコは過去の亡霊に取り付かれたままだ。女性「闘牛士」で蛇(言わずもがな、男性の象徴と真っ直ぐ受け取ってよいのではないだろうか)を恐れる彼女は、ある意味非常に現代的な女性だ。男にこびることなく、男と肩を並べ、同時に、男に負けてはならないという気持ちは男性(=それが誇る権力とも言える)への恐怖心の裏返しでもある。彼女が昏睡に陥ったとき、マルコはただおろおろし、そして過去の亡霊と向き合うしかない。自分が本当はリディアを見ていたのではなかったということ、そしてリディアにもそれがわかっていたということを、彼女がかつての闘牛士仲間の恋人とよりを戻していたことから、マルコは知る。目の前にいる本物の女を見るのではなく、亡霊(もしかしたら未来の亡霊=理想像かもしれない)を重ねることで女を愛す男。実際の女を相手にしていないマルコの語りもまた、モノローグにしかすぎないのだ。

 ベニグノとマルコにただよう、少し同性愛的な香りは、アルモドバルのほかの作品のものとは違うものだ。男同士しか分かり合えないといった雰囲気、女が介在しても、本当には立ち入らせないという雰囲気。「もし僕が昏睡しても語りかけてくれ」というベニグノは、男性同士の対話は、モノローグでも成立するのだという意味なのだろうか。

 作中に、サイレントSFの「縮み行く人間」のワンシーンがさしはさまれる。薬によって小さくなった科学者が、女性の子宮へと入っていくシーンだ。「子宮回帰」は男性みんなの欲望だというのはよく言われることだが、それは同時に、男性としての前進、成長が無いということも意味する。この映画の中でアルモドバルが「子宮回帰」を安易に目指しているようには私には思えない。むしろこのシーンの引用は、観客に、男性の根源的な子宮回帰への欲望と、吸い込まれることへの恐怖心=女性という生き物への欲望と恐怖の両方を「非現実的なSF映画」として提示することで、そこからの脱却と新しい関係の模索をうながしているように思えるのである。

トークトゥーハー」(現題もスペイン語で同じである)
彼女と語りなさい、とはまさに、われわれへの命令文なのだ。

 ラストで昏睡からさめたアリシア(彼女はゼロの状態からまた人生をはじめる女性だ)と、亡霊から解き放たれたマルコが劇場で出会う。二人ははっきりと、目のさめた状態で、お互いに向き合う。二人の、ダイアログとしての、ストーリーが始まるのだ。

<女性が語らない、女性のための物語>
(いつものアルモドバル映画では男性までが女性化して女性賛美を歌い上げるのに!)としての
トークトゥーハー」のお値段

映画館で見てもいいくらい。
ビデオ屋さん500円払ってもいいくらい。

※女は男の付属物に決まってるじゃねぇか!食わしてやってんだ食わして!女に男のことなんか話せるか! というかたには、0円の価値。
※彼女が好きなのに、なんだかうまくいかない あなたには、10万円の価値。

追記:
1今回は「男女間」に焦点を絞りましたが、もちろん現代人の孤独・・といったテーマがしっかりとある映画だと思います。
2ブラジルの歌手、「カエターノベローゾ」出演しています。美声を要チェックです。