「トークトゥーハー」 (1) 「対話」の物語

トークトゥーハー」 (1) 「対話」の物語

「アタメ」「ハイヒール」のアルモドバルが、あの過剰な濃さを抜きにして作った、ぱっと見(いやじっと見も?)アルモドバル風ではない物語である。アカデミーの脚本賞を取った、間違いない秀作である。

ストーリーとしては、こうだ。

母親の介護に毎日を費やしていた男ベニグノが憧れるのはバレリーナアリシアだ。おりしも彼女が交通事故で意識不明に。ベニグノは彼女の看護人として病院づとめとなる。
ふとしたことから女性闘牛士リディアと知り合ったのはジャーナリストのマルコだ。蛇を怖がる彼女をなだめたことから交際が始まるが、闘牛に失敗し彼女は昏睡・先のバレリーナと同じ病院に入院となる。次第に親しくなるベニグノとマルコ。昏睡して語らない彼女たちと共に日向ぼっこをしながら、男たちは語り合い、友情を深めていく。そんな折、ベニグノが逮捕される。その罪とは、看護人として、人として、許されないことだった・・・。

この映画を見て私は監督のアルモドバルの、女性への理解というものが本物であることにつくづく驚嘆させられた。「オールアバウトマイマザー」ではいつものグロテスクさとけばさが、彼の女性への愛情・理解をまがまがしく、好き嫌いの別れるものへとしてしまっていた。(言いたいことはもちろんわかるのだが)そのグロテスクさを廃したからこそ、「トークトゥーハー」は本当に女性を描いた映画として、ある意味非常にわかりやすくわれわれの心に訴えるのである。

ご覧になった方は最初のダンスシーンに面食らったのではないだろうか。舞踏家ビナ・バウシュによる「カフェ・ミューラー」というダンスなのだが、このシーンは映画のすべてを最初に語る、プロローグとして完璧である。壁に自らをたたきつける女、腕を取る男、すり抜ける女・・。今目の前で見ているわけではないので細かくはかけないのだが、私の解説を読んでいただいてから見てもらえれば、多少意味のわかる踊りなのではないかと思う。
さて、この映画にももちろん複数のテーマがあると思うのだが、私が焦点を当てたいのはその一番大枠の部分である。この映画は、男性と女性の「かかわり」ないし「対話」の物語である。アルモドバルは、男と女のかかわりの希薄さ、その対話の無さを、昏睡した女性と男性たちをつかって、寓話として描いているのだ。「トークトゥーハー」というタイトルは、紛れもなくわれわれへの命令文なのである。

それでは具体的な「視聴の手引き」には、明日はいることにしよう。