「パッション」 宗教的背景2

さて、今日は先日の、「ユダヤ人どうしてあんなに怒るのー?」に続く
素朴な疑問「キリストさんなんであんなに耐えるのー?」
である。
 もちろん宗教的バックグラウンドをご存知の方や、セリフを注意深く読んでご覧になった方はもうわかっていることと思いますが、宗教的知識のあまり無い人や、どうも痛いのばかり見てしまった人用に、解説しておきましょうね。
てゆっか、私が思ったんですよ・・・「あんたなーもそこまで耐えて・・・うまく言えば逃げられるじゃんかぁ〜」

 そして昨日も申しましたが、私は宗教の専門家としてでなく、物語として語るので、プロの方、どうぞ大目に見てやってください。
それと、くれぐれも、私は宗教を持ちません。ので、キリスト教の布教をこのページでしているわけでもありません。あくまでも、鑑賞の手引きです。

さて、本題。
まず、一般ピーの私たちのキリスト教の神様のイメージって、こんなじゃないですか?
「えーキリスト教って言ったらマザーテレサっていうかぁ〜優しくって〜何でも許してくれちゃうの〜。見守ってくれる系の、優しい神様〜」(なぜギャル風なのかは不明)

このイメージ、定着したのは、最近のことである。こんな話を知らないだろうか

神様がぷちっと切れて、全世界を洪水にして、ノアだけを箱舟で助けてやった。
神様がぷちっと切れて、快楽の街ソドムとゴモラを破壊した。
神様がぷちっと切れて、兄弟のアベルを殺したカインを末代まで呪った。
etc,etc・・・

そう、神様は、もともと、偉大なる「怒る神」なのだ。
もちろんいつも怒っている訳ではないが、基本的に悪しき行いをした人間には死を持って報いさせる。
そんな、恐れ多き神なのだ。
その神様が、なんで優しい神様にー?!(本人は変わっておられないのかもしれませんが、イメージね、イメージ)

それが、イエスキリストのおかげなのです。

 キリストは、神の子(三位一体:神様=キリスト=聖霊 なので、神様とまぁ同じ)であるので、人間の悪しき行いを、どちらかといえば裁くほうの立場にいます。しかし、キリストは人でもあるので、人を愛した。
 一方神としては人間の悪行を放置するわけありませんから、
世が荒れるにつれ、また人間に対して処罰をするつもりでいるわけです。(ソドムとゴモラのように)
しかし、キリストは愛する人間たちに神からの処罰を受けさせたくない。
私が人間の罪をすべて引き受けますから、それで彼らは許してやってください。というわけです。

たとえば自分の子供が
悪いことをしたために鞭打ちの刑を受けようとしている。
そんなとき親が子供をかばって、自分が鞭を受ける。
それと似ているかもしれません。

 神は以前自分への信仰を試すために、我が子をいけにえにささげよと言ったことがあるほどの厳しい人ですから、キリストを試します。
彼の信頼する使徒ユダに彼を裏切らせる。
彼の愛する人間たちの手で、その人間たちが犯してきた罪の数だけ、鞭打ちをさせる。
審判をする権利が本当には無い(とイエスも知っている)ピラトに、審判を下させ、無実の罪を着させる。
無実であるのに罪人としてゴルゴタの丘にはりつけの十字架の木を背負っていかせる。
「神に呪われたもの」がされるといわれているはりつけ刑に処される。
「神の子なら十字架から降りてみろ、そうしたら信じてやる」と侮辱させる。
神は徹底的にイエスを試すのだ。

でも、イエスの答えは
「このもの達は自分が何をしているのかわかっていないのです・・どうぞお許しを・・」
そして、はりつけのまま、死んでいくのです。

 
エスが、人間の受けるべき処罰、神が破壊によって示していた悪行への処罰を、一人で背負った。
しかも、自分が神の怒りから守ろうとした、その人間たち本人の手で、死に至らしめられた。
途中で言い逃れようとすればいくらでもできたであろうのに、しなかった。
彼は自分の決意を、最後まで貫いた。
すべては、人間を守るため。人間を愛していたから。

これが、キリスト教の基本的な考え方です。

こう考えてみてみると、涙なしには見れない、それが「パッション」なのです。
特に、クリスチャンであれば、「あんなにしてまで人間を守ってくれたのだ・・・それなのに私の今はどうだ。イエスが無実の罪までしょってくれたのに、私はまた悪行を重ねている。悔い改めないと、申し訳ない。」となるわけです。宗派にもよりますが、貼り付けの十字架を教会に飾っているのは、「キリストが何のために死んだのか忘れるな」なんですよね。

ところで、映画で、キリストの最後の言葉は
「神よ、なぜ私をお見捨てになったのですか?」となっています。
この聖書からのセリフ(他の使徒行伝では違うセリフになっている)は、いろいろな考え方があって、「やっぱりこれはあんまりだ、神様、」と思っていったということになると、映画「最後の誘惑」のようにイエスが後悔して亡くなったということになってしまうが、
たとえば、「神様、どうして見捨てることにしたんですか?どうしてこのやり方にしたんですか?」と受け取るなら、単純に、「他に方法は無かったのでしょうか?」という問いかけの文ともなる・・
この最後の言葉に関しては、それこそ星の数ほど研究が残されているので、興味のある方はいろいろと読んでみるといいかもしれない。

 私としては、あれだけの痛みに耐えた後、もう死ぬと自分でわかっている状態でイエスが後悔するとも思えないのだが・・・
「こんなやり方しかなかったんですかねぇ、はぁ・・・」位のぼやきに受け取ったら、だめかしらん・・

 さて、今まで書いたのは、あくまでも聖書に書いてあること。これは後に使徒たちが書き残したことによるから、どこまでが事実かわからないのは、一応付け加えておかなければなりません。
それでも、一人の男が、人を愛したために、無実でありながら壮絶な死をとげた。
たとえところどころがフィクションだとしても、世界宗教になって当然と思える、死だったと思います。(もちろん教えも)

 キリスト教的に言えば、私たちが今楽しく過ごしているのは、神様がわれわれの悪行を見ていても、キリストに免じて許してくれているから。
 メルギブソンが、イラク戦争の渦に飲まれているアメリカでこれを作ったのは、なんとも意図的に思えるのである。


追記:この映画で、迫害されるイエスに恐れず近寄っていくのは女性たちだけだ。メルギブソンの女性観がよく出ているように思える。(し、もともと聖書もそう書いている)