「座頭市」  「転倒」の物語−「庶民」バンザイ!

座頭市」 「転倒」の物語−「庶民」バンザイ! 

北野武の作品を貫くものがある。それはもちろん、常に死であるかもしれないが、(故淀川長治先生は、たけしが死と暴力を乗り越えたときにこそ最高傑作を作るだろうと語った)、「たけしくん、ハイ」「菊次郎とさき」といったテレビドラマにまで共通しているのは、彼が「庶民」−言い換えれば、「社会的弱者」を描こうとすることだ。
 しかし、「HANA-BI」においては、主人公は庶民でも弱者でもないではないか、と言われそうであるが、主人公自身は子供を亡くし、病身の妻を抱え、という生存競争を生き抜くにはハンデを背負った弱者であり、普通のアパートに暮らし、トランプゲームで時を過ごすその姿は庶民そのままだ。大杉連演じる友人もまたハンデを抱えた弱者であるのは、ご承知の通りであろう。

 北野作品では、どんなに暴力的な映画でも、また、どんなにくだらない(?)映画でも、主人公は全くの「ワル」であったり「虚無」であったりはせず、常に何らかの弱い面(それは弱い家族であったりする)を抱えた普通の生活をする庶民である。「庶民」を、「社会的弱者」を描くこと。それが北野武が常にその作品の中で守っていることの一つである。

 「座頭市」の場合、その、正体不明の、「盲目の凄腕剣客」という存在が勝新でできあがってしまっているから、北野はあえて座頭市そのものの雰囲気を変えてはいない。(が、姿からして凄みは少ないし、かなりお茶目ではあったりするけれども。)

 しかし、この映画のもう一人の主人公ーそれは浅野忠信演じる凄腕用心棒、服部ではないーを忘れてはならない。それは、ほかならぬ「庶民」そのものだ。(しかし、服部もまた病身の妻を抱えやむを得ぬ事情から用心棒となった「弱者」であり、「庶民」である)予告編やレビューで、ラストのタップダンスがうんぬん・・というのを見た方は多いかと思う。
 
 なぜそこでタップダンスが?確かにたけしはタップダンスを習っていて、何度か披露したこともあったっけ?だからってなぜに時代劇でタップダンス?それは、奇をてらった演出としてだけでなく、映画の構成として成立するのだろうか?

 その答えはイエスである。なぜなら、ラストの町民によるタップダンスは、北野武の「庶民」賛歌であるからだ。

 作品中、町を牛耳る「銀蔵組」「扇屋」といった悪人たちの圧制の元に暮らしている町民(農民)たちが、鈴木慶一氏のスタイリッシュな音楽に合わせて、リズミカルにくわを振り上げ、軽快に泥をはねて遊ぶといった場面がさしはさまれる。これは、ラストのタップダンスへの序章だ。躍動を封じ込められた「庶民」のささやかな発露。そこに、座頭市という絶対的存在が現れる。そもそもこの映画の中で座頭市が暴れ始めるようになるのは、彼がうっていたばくちでの賭場側のいかさま行為であるがから、この「絶対的存在」というのも、はじめから「絶対的正義」というわけでもない。

 座頭市は、勝新のころから、そしてこの作品ではとりわけ、いわゆる「トリックスター」なのだ。正義や悪のため、というよりも、もっと気ままに行動し、その結果、体制や価値観の「転倒」−この映画のキーワードである−を引き起こす存在。それが座頭市だ。この映画では、文字通り、全ての悪は座頭市が切り捨ててくれる。するとそこに残るのはもちろん、圧制から開放され、喜びを全身の躍動で表現する町人たち=ラストでのタップダンス だ。既存の価値観の「転倒」の末、フィナーレに待っているものは、なんでもあり(であるから当然、時代劇にタップダンスだってあり、である)のカーニバル(祭り)である。「トリックスター」をあがめる映画ではないから、そのカーニバルの場に座頭市はいない。主役はあくまでも、「庶民」なのだ。

 たとえば、「スターウォーズ」。典型的な英雄物語の形をとるこの作品では、ラストでは常にフィナーレのカーニバルが催されている。何かをやり遂げたヒーローに、権威のあるものがなにがしかの賞を授け、祭りは絶頂を向かえ、ジ・エンド。これが英雄物語の、神話時代からの基本的な構造である。

 しかし、そうであってもおかしくないはずの、「座頭市」はそうではない。座頭市は常に孤高のトリックスターであり、「庶民」は常に北野にとっての核をなす存在だ。だからそこで踊り狂うのは、しがないばくち馬鹿(ガダルカナル・タカ)であり、強盗によって家族や財産を失い苦労の人生を歩んできた「弱者」の芸者姉妹たちである。「ありがとう、ありがとう」という時代劇お決まりの、助けられたものから座頭市への感謝のシーンもない。あるのはただ踊りであり、立ち去って行く座頭市であり、リズミカルに家の骨組みを作る大工たちののみの音ー「庶民」や解き放たれた「弱者」の躍動感のみであるのだ。

 さて、そういった北野映画としての意味以外にも、この映画には楽しむべきもおがたくさんるように思う。そのすばやい殺陣。北野武の映像美はよく知られているが、彼の手による時代劇の美しさ(雨の中のぼろぼろの番傘の美しさよ!)。さしはさまれる芸者姉妹による日本舞踊のたおやかさ、優美さ。スタイリッシュ時代劇(もっとも、セリフなどはちっとも時代劇くささがなく、単に着物を着ているだけのような印象も受ける)としても、充分楽しめる一品であると思う。

 ストーリーは・・・書くほどでもないであろう。ストーリーそのものは、いつもの座頭市である。ただ、違うのは、庶民がしっかり描かれていること、そして相手役の浅野演じる用心棒の内面までしっかり描かれていることであろうか。

そして、最後に、この映画が、上に書いたように「転倒」がキーワードであることをもう一度言っておこう。体制が「転倒」し、観客の価値観が「転倒」し、座頭市本人のラストもまた、「転倒」する。北野武の、知性とは、なんとまぁ彼らしい姿を持って現れることか!

結論

いろんな風に楽しめるので、400円で。