「ガタカ」 (2)
「ガタカ」 (2) アンドリュー・ニコルの光と影
さて、「ガタカ」より早くに執筆されていたのが公開は後となった「トルーマンショー」であるが、「ガタカ」と「トルーマンショー」の共通点は、その双方が「作られた封鎖社会」からの脱出を描いた物語であることだ。そして、それに気がついたとき、私は、監督・脚本のニコル監督の、経歴を調べる必要があると感じたのであった。
アンドリュー・ニコル監督は、ニュージーランドの出身であった。ニュージーランドのCM界で働いた後、ロンドンでの仕事が成功を収め、ハリウッドへ。そして「ガタカ」「トルーマンショー」で高い評価を得、現在に至る。
そう、これはまるで、「ガタカ」そのままではないか。ニュージーランド(それは白人の移民が「作った」街だ)から実力でロンドンへ脱出し、そこをあしがかりとして、夢であったハリウッドへ進出する。そういえば、「シモーヌ」で、監督本人はシモーヌ役の女優さんと結婚したという点で、なんとも「言行一致」の監督だと書いたことがある。そう、ニコルはまさに、言行一致の人なのだ!
残念ながらネットでは、彼の生い立ちまではわからなかったのだが、案外、立派な両親と、立派な弟のいる家庭に育ち、おざなりで表面的なニュジュージーランドの中流都市にでも育ったのかもしれない。ニコル監督はそこから、自力で、脱出したのだ。
「ガタカ」でアイリーンがビンセントを、見せたいものがあると連れて行くのは太陽発電のミラーに映る朝日である。しかし、ビンセントはうなずくものの、コンタクトをはずしているため、それをきれいと言えるほどは見えていない。ぼんやりとした光であるだけだ。ビンセントにとっての、地球での「本当の美を反射したもの」は、美ではなく、彼が目指したのは地球を抜け出した宇宙であり、そこから見うる本当の朝日であり、美であった。
ビンセントは、弟と海で勝負をしながら、こういう。
「このまま泳げば向こう岸に着く」と。
トルーマンは、手を伸ばして空に触れる。
作られた世界のなかに満足するのではなく、そのむこうへ飛び出そうとする勇気と原動力。ニコルの初期の作品を突き動かしていたのは、彼自身の生い立ちによるものだったのかもしれない。インタビューアーに、ビンセントやトルーマンというキャラクターの発想は、あなたの人生の体験に基づくものですか?ときかれたニコルは、
Uh, you could say that coming from New Zealand, everybody has a built-in sense of isolation. It is a geography thing.
そうだね、ニュージーランドという土地柄からかもしれない。あそこではみんな孤立感を植えつけられる。地理的なものだね。
と言葉すくなに語っているのが、そのよい証拠となろうか。
彼の作品に毎回なんらかの「アラ」があるのは、その源が「私小説」であり、それをたくみなアイデアでおおい、料理して娯楽作品にするという彼の映画作りのやり方故なのであろう。
現在のニコルは「シモーヌ」によれば、抜け出した先の、ハリウッドでの映画作りになにがしかの不満を抱えているらしい。この不満が、どう料理されて次の作品に現れてくるか、それが目下のところ私の楽しみである。