「ウォルター少年と夏の休日」

 

 「ウォルター少年と夏の休日」と「ビッグフィッシュ」−二つの同じ物語


監督・脚本はティム・マッキャンリーズ。実はこの映画、どうやら、かの感動作ティム・バートンの「ビッグ・フィッシュ」へのいわば対抗馬、いや、二匹目のどじょう映画であるようだ。マッキャンリーズは「アイアン・ジャイアント」の脚本家。感動ならお手の物、ということで、「ティム」バートンの対抗馬として担ぎ出されたのかもしれない。


 父親がいない14才の少年ウォルター(ハーレイ・ジョエル・オスメント)は、「大金を隠し持っているらしいから、とにかく見つけてきて!」と興奮気味の母親に、今までまったく付き合いのない母方のおじ二人の住む家へおきざりにされる。
 おじ二人は、最近このテキサスに戻ってきたらしいのだが、その「億万長者」のうわさとは裏腹に、粗末な暮らし振りだ。無愛想なハブ(ロバート・デュヴァル)とガース(マイケル・ケイン)の2人に馴染めないウォルター。しかし、屋根裏部屋のトランクケースからエスニックな美女の写真を見つけたウォルターに、ガースが意外な物語を語り始めたことから、三人は心を通わせていく・・。

(以下「ビッグ・フィッシュ」も含めたねたばれが多数含まれますので、ご注意ください。また、以下にかかれたものはあくまでも筆者の観点であり、皆さんの感動を損なおうという他意はありません。)


 さて、この映画の何が「二匹目のどじょう映画」であるのかといえば、その基本構造そのままである。

 「ビッグ・フィッシュ」(原作のある、文学作品でもある・原作者はその後同じテーマで違う物語を書いているが、ここでは、ウソのように話した父親を責めている)では父親が生涯にわたって息子に聞かせ続けた夢のような話が、実は多少の誇張はあるもののすべて真実であった、という物語であった。

 かつてアーサー・ミラーの「セールスマンの死」で暴き出した、「人によく知られること」・「リッチになること」=「アメリカンドリーム」をすばらしいとする価値観が(これはアメリカのマスメディアのつくったものだ)実ははかなく、非現実的でありむなしいものであること・・を、きれいにひっくりかえし、現代においては「アメリカンドリームを信じよ」と、ストーリーのすべてをまるごと裏返しにしたのが、この原作であった。

( 左・ビッグ・フィッシュ  右  セールスマン)

 「息子たちに語ったままの凄腕セールスマン」⇔「実際は解雇寸前のセールスマン」
「浮気をしていそうでしていなかった父」 ⇔「真面目なようで浮気をしていた父」
「町中すべてが知り合い」 ⇔「町中すべてが知り合いという、ウソ・夢」

といった具合である。そこに対立しているのは、「アメリカンドリーム」の構図だけでなく、セールスマンの父親が、「信じられない父親」(死で愛を示すほかない)のに対し、ビッグ・フィッシュの父親は、「本当は信じるべき父親」であったという点でもある。ここに、原作者の(そして出版社、仕掛け人たちの)アメリカにおいての「父親を信じよ」というメッセージが(それは同時に、現在の父権崩壊を示唆するものでもある)読み取れる、と以前実はもう消してしまった批評で書いたことがある。くれぐれもいっておくが、これは感動作を批判しているわけではない。「ビッグ・フィッシュ」はすばらしい感動作である。ただ、この物語の登場・評価に、アメリカのそういう傾向が見える、というだけの話である。

 さて、「ウォルター少年と夏の休日」は、なぜこの「ビッグ・フィッシュ」の二匹目であるのかといえば、その基本構図が同じであるからだ。そして、上に同じく「セールスマンの死」をひっくりかえした部分が存在するからだ。

 アーサー・ミラーの「セールスマンの死」、では、父親であるセールスマンが、その夢を熱く語るシーンがあるが、そこでその「夢物語」を象徴する人物がいる。彼の「おじさん」である。このおじは、主人公の話によれば、アフリカに渡り(舞台でこのおじが実体化されると、たいていサファリの服装を着ているらしい)そこでアフリカを切り開き、巨万の富を築いた、というのである。もちろんこの話が真実かどうかというのは描かれず、どちらかといえば、この夢物語を信じて生きてきた主人公ウィリーが人生を誤ってしまうのであるから、うそ臭い話であるといえる。アフリカのサファリ、といえばヘミングウェイをはじめとして、「男らしさ」の最たる象徴のひとつだ。ウィリーの夢は、この「男らしさ」の夢とアメリカ資本主義の夢を併せ持つ形で、増殖したのである。

 これが「ウォルター少年と夏の休日」と、見事に一致する。ウォルター少年が預けられる「おじ」達は、アフリカで活躍し、猛獣たちと戦い、そして巨万の富を築いた、と自らを語る。そしてそのすべては、案の定、真実なのである。
「ビッグフィッシュ」ではセールスマンの父の夢物語が、真実であった。「ウォルター少年」では アフリカのおじの話、が真実であった。そう、この二つの映画は、「セールスマンの死」のうそ臭い夢物語が二つに分離し、そしてその夢双方を見事にかなえた物語なのである。

 ビッグフィッシュにおいても、ウォルター少年においても、その夢物語が真実であったことがラストではっきりと明らかになり、「アメリカンドリーム」も「男らしさの幻想」も現実であったことが強められてラストとなる。

しかし、私は個人的には、ウォルター少年のほうが、気に入っている。よりできがよく、強く感動するのは「ビッグフィッシュ」であるにもかかわらず、だ。

 なぜかといえば、ウォルター少年は、母のもとを離れ、おじたちに、自分が大きくなるまで「男らしさを封印する」=保護者として少年を育てる ことを要求し、おじたちはこれを飲むからだ(女性抜きの男性だけで成長する少年、というスタンスは「男らしさ幻想」とあいまった微妙さではあるが)。つまり、おじたちは、それまでにはなかった、いわゆる「女性的な」要素=育児・庇護を、その性質に付け加え、ただの「男らしい男」ではない、女性的面をも兼ね備えた「完璧な人間」へと変貌するからである。
 ウォルターがひとり立ちしてからやっと、おじたちは「靴をはいて」男らしく、死んでいくのである。(宗教的には、確か靴は死に際して脱がせてやるものだったかと記憶している)成長したウォルター少年は、漫画家という「夢を売る」商売となっていて、あきらかに資本主義に組み込まれた人間にはなっていないようであるのが、また、私にはほほえましく感じられた。

 女性の影は「ビッグフィッシュ」と比べてもあまりに薄いが(母親はあまりにひどい人間であるし)、「男性的な男」が女性性をもかねそなえる、という成長までも描いているから、というだけで、私はウォルター少年に思わず軍配をあげてしまうのだ。いや、それとも、「女性抜きで育つ男なんて!」と、声を上げるフェミニストであるべきなのかも、しれない。