宇宙戦争

 スピルバーグ的寓話


 スピルバーグの大新作「宇宙戦争」である。徹底した秘密主義の末に公開されたその中身は・・・

 ニュージャージーに暮らすレイ(トム・クルーズ)はごく平凡なアメリカ人。別れた妻との間には息子のロビー(ジャスティン・チャットウィン)と、娘レイチェル(ダコタ・ファニング)がいた。ぎくしゃくしたままの子どもたちとの面会の日、空が突如不気味な黒い雲とともに雷鳴をとどろかせると、地中から見たこともない巨大な「何か」が現れ、人類に襲い掛かり始める。人々がパニックに陥り逃げ惑う中で、レイは子供たちを守りぬくことを決意するが・・・。


 制作費130億円に対しての興行収入が一割にも満たないと言うこの作品は概して不評である。しかし、この映画をうんぬん批判するよりも、私の同僚のカナダ人を引用して「Very Spielberg!」と言ってあげるのが、映画好きと言うものであろう。よい意味でも、悪い意味でもこれはスピルバーグ映画なのだ。
 
 スピルバーグファンであれば、これがある意味、監督が意図しないうちの自分の映画のパロディーになっていることは、すぐにお気づきであろう。トライポッドの触手が主人公たちを探す場面はまさに「ジュラシックパーク」のヴェラキラプトルとのかくれんぼの場面であるし、地下室の小さな窓から漏れる轟音と光の場面は、まさに「未知との遭遇」の少年が異星人にさらわれる場面であり、トライポッドはあるいは図体の大きな「マイノリティーリポート」の生命探査ミニマシーンであるし、あのおどろおどろしい空は「未知との遭遇」でも「E.T」でもあり、そしてトライポッドに捕らえられ籠に集められた人間たちはそのまま「A.I」のロボットたちの構図であり、そして、凄惨な光景の前にただただ立ちすくむダコタ・ファニングのシルエットは、「ポルターガイスト」の少女の姿に生き写しである。ただひたすらにスピルバーグ・・・それがこの130億円の正体である。

 さて、原作はご存知のとおりH.Gウェルズ。かの大パニックを起したと言うラジオ番組の原作である。もちろんこれはイギリスでの話であるから、スピルバーグがこの舞台を「ニューヨークからボストンヘの旅」へ移したことは、監督本人の意図であることは明白である。そう、それは「9.11の街から、アメリカ発祥の地へ」の旅なのだ。
そして、見逃してはならない小さな隠されたキーワード・・それは、主人公の息子が宿題に出されている「アルジェリア戦争」のレポートと、娘の手に刺さった棘のエピソードである。

 アルジェリア戦争とは、フランスに植民地化されていたアルジェリアが独立のために戦ったという歴史上の事実である。このレポートを課された息子は、逃げ続けるうちに「同胞を守るために戦うべきだ」という意識を持ち、そのため父親と意見を異にすることになる。
 これを裏付けるように、侵略によって地球を別の星に変えようとする宇宙人に果敢に挑む軍隊たちは「市民を守れ!」と口にし、果敢に未知の生き物に向かっていく。そこには、逃げ出す軍隊や、逃げ惑う兵隊といった描写は全くない。一見斜に構えた息子でさえを含め、真っ向から戦いに挑む彼らは高潔で、また、たのもしい存在として描かれている。自由のために戦う彼らは、強く美しい。
 また、同時に逃げてばかりでなく戦うべきだ、と語る息子の姿は、ユダヤ人(監督本人のルーツである)の逸話と重なる。ユダヤ人が集まると、こう語られることがあるらしい。あのときになぜわれわれはナチの言いなりになったのか、なぜ真っ向から戦いを挑まなかったのか、と。とにかく逃げることで生き延びようとする父親と、戦うことで生きようとする息子の会話は、こんな言外の意味をもにおわせる。これは、 war of the wolrds ではなく、むしろ全世界に常に存在してきた、wars in the World である。戦場に生きる子供たちのあの目を、監督は、ダコタ・ファニングのあの類まれな演技力で、代表させているのだ。
 
 一方、向こう見ずなレジスタンス的な戦いをしようとするティム・ロビンスは、その「意味のない戦意」ゆえに駆逐される。明確な意図も計画も、そして団結も無いままに戦いを挑むことは逆に生命を危険にさらすだけでナンセンスですらある。生き延びるために戦う(主人公)のと、向こう見ずに戦いを挑む(ロビンス演じる男)のと、そして、同胞を守るために身を投げ出して戦闘する(軍隊・息子)のでは、それぞれにもつ意味が違う。

 さて、娘の手に棘が刺さったのを抜こうか、と声をかける父親に、娘が言う。「触らないで。自然と私の体が棘を押し出すから。」―これはまさに、この映画のラストを暗示している。結局はガイア―地球は一つの生命体であると言う概念である―が、この侵略者たちを「押し出して」しまうのである。「人類は共生をなしとげている」とのナレーションに、肩透かしを食らった観客も多いが、これは実は「ガイア」の概念そのままのエンディングであり、実は一番の原作・映画を通してのメッセージでもある。

 同胞のために戦いを決意した息子も、娘を守るために懸命に逃げ続け、娘のためだけに戦った父親も、娘も、彼らは無事にアメリカ発祥の地「ボストン」にたどり着く。それは、イギリスとの激しいこぜりあえいの末に手に入れたアメリカという新天地であった。

 崩壊するキリスト教会の塔―あのNY(正確には、庶民が暮らすニュージャージーからではあるが)から始まったこの物語が、象徴的な父と息子の「ボストン」での再会で終わる―敵の攻撃から同胞を守るための戦いと、生きるための戦いとの新たな出会いである―のは、偶然に意図されたものではない。そして、そのあとに流れる「共生」のアナウンスも、完全に計画されたものである。

 同胞を守る戦いも、家族と生きるための戦いも正しい。しかし、共生によって血が流されるのが終わることもある―


 スピルバーグは、ここ数年作品をすすめるごとにより象徴的になっている。彼が、いつか、「完全な社会的メッセージを描きこんだ完全な娯楽作品」を作り出してくれるまで、私は見守りたい。奇しくもロンドンのテロと公開が重なったこの映画で、少なくとも、彼の言っていることは、けっして間違いではないのである。

映画として 7/10
トムダディー 9/10
ダコタ   10/10