ヴィレッジ

 「失敗から新たに学ぶ男、シャマラン」

シックスセンス」「サイン」のシャマラン監督の最新作がやっとビデオ化とあいなった。


  森に囲まれた、静かな村。人々は農耕を営み、マキを割り、刺繍をし、パンを焼く。そんな平和な村には決して破ってはならない三つの掟があった。森に入ってはならない、不吉な赤い色を封印せよ、警告の鐘に注意せよ−。村人は森に棲むと噂される未知の生命体を恐れ、自分たちの世界の中だけで慎ましく生活していた。そんなある日、弟を病気で失ったばかりの若者ルシアス(ホアキン・フェニックス)が、村にはない医薬品を手に入れるために、禁断の森を抜けたいと、長老会に許可を申し出る…。


 シャマラン監督は、「サイン」で、犯してはならない失敗をした。映画―とくにそれが、スリラー映画やホラー映画であるとき、「恐怖」はよほどの美術的なセンスが無い限り、あからさまにそのものを提示してはいけない、というルールである。「エイリアン」や「ヘルレイザー」など、「恐怖」を形にすることで、余計にそれをあおる映画も数多く存在はするが、それにはよほどの美的センスと、渾身の注意が必要とされるのだ。あの「13日の金曜日」でさえ、おそらく、ジェイソン本人の全身像が、しっかりと(そしてフツウに)映っているシーンなどほとんどない。下からのおおうつしであるとか、手のアップであるとか、そんなよくよくに注意を重ねた映り方である筈だ。

 「サイン」では、シャマラン監督は、美的なセンスのかけらもない「恐怖」を、何の手も加えずに、きわめてフツウに写してしまった。それは、単なる「作り物」にしかすぎず、ほとんどの観客の興をそいだはずである。全てが一つの線につながっていく伏せんの作り方は悪くなく、そのエピソード自体も心に残る。しかし、「恐怖の提示」が全てをダメにしてしまっているのだ。

 シャマランは、一つの失敗から幾つかのことを学び、そして、「ヴィレッジ」でそれを逆手にとってみせた。
 「恐怖」はあからさまに提示されると、作り物であることが観客の興をそぐ。恐怖は所詮人間が作り出したものにしか過ぎず、怖がるのは人間本人の心である。


すべてが人間の心にあるのなら、その「提示」もはじめから「作り物」にしてしまえばよい――

そうしてできた映画が、「ヴィレッジ」である。

(以下、結末をかいているわけではありませんが、ネタバレが含まれます。これからご覧になる方は、お気をつけください)


 この映画で恐怖を作り出し、それを刷り込んだのは、村の長老たちである。第二世代たちを村の外に出さないために、「真実」を隠すために、彼らは恐怖をあおる「掟」をつくり、森に住むと言う恐ろしい生き物そのものをも「手作り」した。そもそもこの村全てが彼らの「手作り」であり、その中にいたっては、恐怖すら「手作り」であったのは、ある意味アイロニーでもある。
 赤い色は、彼らの愛しいものが奪われたときに流された血の色であり、彼らはそれを防ぎたいがために、恐怖を手作りしてきた。しかし、平和も恐怖もその両方が手作りの村に、本物の作り物で無い恐怖が生じたとき、村は危機にさらされる。「真実」を隠すための「作り物の恐怖」が、新たな「真実」の色を帯びてしまったのである。

 ルシアスが刺され、その婚約者アイビーが薬を森の外に取りに行くのに同行する若者たちの、森でのおびえようは、尋常ではない。彼らはひたすらに「作り物の恐怖」を刷り込まれて育った世代であり、彼らの心の中では、その「作り物」は、「本物」である。彼らは警告の鐘を聞くと扉を閉め地下室に逃げるように訓練されているから、「恐怖そのもの」を目にしたことは無い。目に見えない恐怖ほど、恐ろしいものは無い。

 この辺の「作り物」と「恐怖」の関係を、シャナハンは、村の第一世代と第二世代、そして映画と観客、の間で重ねて描いてみせる。目に見えない恐怖は、作り物でも、恐ろしい。目に見える恐怖は、作り物であれば、恐ろしくない。そして、作り物でない恐怖は、目に見えても見えなくても、恐ろしい。

 主人公の婚約者、アイビーが「目が見えない」という設定であるのは、このへんと関係があるのであろう。彼女にとっては全ての恐怖は目には見えない。見えるのは核心だけだ。刷り込みのあとに父親から真実を告げられ、森に不安ながらもいどむことができるのは、もちろんルシアスへの愛からであるのと同様、彼女が目が見えないからである。しかし、もちろん、森の中で彼女を追うのは「本物の恐怖」であるのだが、それに「勇敢ゲーム」のように手を広げて背を向け、やりすごすことができるのもまた、おそらく彼女が目が見えないゆえの勇敢さがあるからなのだろう。何かを眼で見てしまうから、われわれは惑うのだ。

 また、目の見えないアイビーだけが、第二世代の中の「真実」を知る存在となるのも興味深い。ウォーカー、というファミリーネームを持つ彼女であるからこそ外界との塀にたどり着くが、塀を越えた向こうの現実を実際には見ることは出来ない。けれども、彼女は「真実」を知っている。目に見えない真実―なんとも、示唆的ではないか。

 文学ではよく、森を深層心理と結び付けて考えるので、案外、心の中の恐怖(すりこまれた恐怖)に打ち勝てずに逃げ出すもの(アイビーを捨てて逃げた第二世代たち)と、作られた恐怖にも逃げ出さず、本物の恐怖(それは、人間の醜い部分とも言い換えられる)と対峙したからこそ、アイビーは打ち勝ち、目に見えない真実にたどり着いた、といった解釈も成り立つのかもしれない。

 が、私はどちらかといえば、文学的意味と言うよりも、シャマランが「サイン」を踏まえた「恐怖の提示」について考えた結果が、ストーリーとなって形をなしたのだと思っている。恐怖が「作り物」だとわかった後の森での恐怖の盛り上げ方(ブレアウィッチを意識したと思われる)などが、そのよい例ではないか。

 また、アーミッシュエホバの証人的な、宗教的禁忌を持った独特の宗教、生活形態を思わせる場面は、彼の「シャマラン節」に利用されただけで、そこに論じるほどの深い意味はないと私は思っている。そもそも、映画撮影中の監督やクルーなんて、いつもこの映画の観客のような状態であるはずで、シャマランはそれを、自分の節に利用したに過ぎない。

 恐怖の見せ方と、その巣くい方について、シャマランがもっと考え、咀嚼し、また次の新たなシャマラン節映画を作ってくれることを、私は楽しみにしている。


映画として 8/10
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