スーパーサイズ・ミー

nakamura

 2001年のベネチア・ビエンナーレで、日本の現代芸術家中村政人が展示して見せたのは、薄暗い部屋の中に、幾重にも迷路のように連なる巨大な「M」のネオン・ロゴであった。そのまがまがしく黄色い光を放つ「M」たちは、われわれの良く知るあの「M」−世界共通の単位であり、最短の「世界の言葉」―であるがゆえある種の親しみの感をわれわれに抱かせ、また同時にそのあまりに均一化された連続性と巨大さゆえに、重くのしかかる圧迫感、恐怖心をももたらした。(写真はその作品)
 そしてそれこそが、マクドナルドの本質であった。

 この映画の監督スパーロックは三十代前半、どちらかといえばおっとりとした、ほがらかな白人アメリカ男性である。身長は高いものの、中肉。ベジタリアン・シェフの彼女に「肉食はやめなさい!」となじられても、微笑んで交わし、彼女のベジタリアン料理に、そしてベーコンやステーキにも舌鼓を打つ、心身ともにきわめて健康な男である。そんな彼が、ある日こんなニュースを目にした。


「ニューヨークの米連邦地裁は4日、糖尿病や心臓病などの症状がある肥満児らが、
 肥満の原因となる食事をさせたとしてハンバーガー店チェーンのマクドナルドに
 損害賠償を求めた2回目の訴えを却下した。

 地裁は今年1月、肥満は食べ過ぎた本人の責任として同じ原告らの訴えを退けたが、
 内容を修正して再提訴することは認めていた。

 原告側は新たな訴訟で、マクドナルドが自社のハンバーガーなどを健康な食品と
 消費者に誤解させているなどと訴えた。これに対し地裁判事は、マクドナルドの
 食品が原告の健康被害の原因であることや、誤解を招く宣伝の事実を原告側は
 立証できなかったとしている。
 原告側はさらに再提訴を認めるよう求めたが、判事は却下した。 」(2003年9月、実際の新聞記事より)

マクドナルドに害があると立証できなかったから、却下か・・・なら、一月マクドナルドを食べ続けて、立証できたら、どうなるんだろう?」―ーそれが、作品となったのが「スーパーサイズ・ミー」である。

 そもそも「スーパーサイズ」とは、SMLのそのまた上のサイズを示す。しかし、日本のMサイズがそもそも向こうのSであるから(そして、アメリカのMは日本のLよりも大きい)スーパーサイズとなると、日本のバーガーしか目にしたことがない人間にはもう想像不可能ともいえる大きさである。
 この映画の公開後「映画とは関係が無い」としつつマクドナルドが販売をやめた「Lの上のスーパーサイズ」を、監督はアメリカ全体の傾向だとさらりと言う。全てを大きくした上に、人間そのものも大きくなったのがアメリカだ、と。

 ご想像のとおり、一月間マクドナルドを食べ続けた後のスパーロックの健康状態は医者が驚くほどに悪化する。そして、これは想像もしなかったことであるが、アメリカ人としては珍しいほどおっとりとしたスパーロックが、その表情から見て取れるほど精神状態までも悪くなっていくのが、この実験の一番の驚きである。食品添加物による中毒症状の結果であるとすれば、スパーロックも言っているとおり、遊具施設を併設し、おもちゃを付録にする「子供を巻き込もうとする」マクドナルドの戦略は、あまりに恐ろしい。

 が、この映画には「華氏9.11」のような圧倒的な敵意は無い。それは監督のおっとりとした人柄によるものもあるのだろうが、あくまでもマクドナルドを中心としたジャンクフード業界を身を挺して暴き出しながらも、その語り口はいたってソフトで、攻撃的ではない。適宜挿入されるグラフと事実、そして映像による現実と数々の権威たちの証言―ポップな音楽と映像を交えながらソフトにつむぎだされるマクドナルドの恐ろしさは、かえって、どちらかといえばアグレッシブではないわれわれ日本人の心には、ムーアの語り口以上に鮮烈に残るかもしれない。

 さて、監督の実験とその行程・結果の隙間に「大国アメリカの構造」が見え隠れしているのも忘れてはならない。
 それは、資本主義の末路であり、資本主義「国家」の末路である。

「消費」を促すために、全てが大きくなり、「人」が大きくなる。
「人」が大きくなったのを「ダイエット」させる商品を「消費」するように人をうながす。

 「国民」の「消費」により「資本」をえるためなら、「国民」の健康を守るよりも、「資本」の担い手であるマクドナルドのような「企業」を優先する―それが、アメリカという国家の現在である。
 国に忠誠を誓うあのアメリカ国民がすらすら口をついて言えるのは、マクドナルドの宣伝文句であり、子供たちはIn God We Trust(※1)のはずであるいわゆる「イエス様」の像はしらずとも、マクドナルドのキャラクターは知っている。

 「資本」のために「企業」をたてに自国の国民すらひたすらに洗脳し、操るアメリカという国家が、何らかの大義名分のための戦争や他国援助をする、という事はまずありえ無い―そんなアメリカのまがまがしい真実と、「政府」と「企業」がしっかりと手を結び、「国民」を無視しているというアメリカの「構造」(※2)が、監督が用いるグラフや証言のそこここに見え隠れしているのを目にすることは(※3)、なにもかもが不透明で、それを暴くことすら誰もしない日本という国に住むわれわれには衝撃的ですらあるだろう。
 それは、ジュースに溺れていることを知っている蟻と、自分がなにに溺れているのかも知らない蟻の、差であるのかもしれない。

 「マクドナルド、食べますか?それとも日本人やめますか?」
  こんなキャッチコピーが浮かんだ、映画であった。(※4)

映画として 8/10
監督  10/10 (久々に目にした、おっとりとほがらかなアメリカ人である)

※1 アメリカのコインにはそう記されている。目にするたびに、「政教分離」という言葉が思い浮かぶ。

※2 これは、映画の「学校給食」のくだりでもっとも顕著である。コストが同じでより栄養価が高い学校給食よりも、企業配給のファーストフード給食を、「資本」確保のために選択しているのはアメリカ国家本人である。

※3 証言やグラフが存在するということは、アメリカという国家は、政府と企業の癒着状態を示す情報自体は開示している、ということである。ただ、それを見ようとしない国民が多いというだけである。一方日本では、その情報すら不透明であり、それを開示させようとする国民すらいない。

※4 日本人にとってのマクドナルドは、たいていの場合夕飯にはなりえなくは無いか。一方、アメリカ人にとってのマクドナルドは、まぎれもない主食であり、夕飯であり昼食であり、同時にスナックでもある。日本人が、ともすれば三食というよりも軽めのスナック的な見方で認識しているファストフードは、アメリカ人にとっては純然たる「三度の食事」なのだ。
 そのインパクトは、農協のお米全てに有害な食品添加物があって、三食農協のお米を使った食事を食べたら肝臓を悪くした、というくらいあるに違いない。(もちろん、ファストフードという点は置いておいて、インパクト基準でだが)
 マクドナルドの「三度の食事」に有害な添加物や、栄養過多があるとすれば、それは確かに、日本で以上に罪深いといえるかもしれない。