ライフ・アクアティック

アメリカ版「家族の肖像」

ティーブ・ズィスー(ビル・マーレー)は、名の知れた海洋冒険家だが、大の親友を未知の鮫の餌食として失った上、ドキュメンタリー映画も大コケ、落ち目すぎて新作を作ろうにも出資者も見つけられない状態である。その上妻(アンジェリカ・ヒューストン)とも不仲、まさに「中高年の危機」的状況に陥っていた。
 そこに現れたのが、かつて別れた女性の息子、30歳のネッドである。自分の息子では、と戸惑いながら喜ぶスティーブは、彼を早速冒険家集団「チーム・ズィスー」に迎え入れ、特集記事を組むという妊娠中の記者(ケイト・ブランシェット)までひきつれて、親友の敵討ちをかねた撮影の旅にでるが・・・


 全編をセウ・ジェルジ(シティ・オブ・ゴッド)のギター弾き語りによるデビッド・ボウイーのカバーと、キッチュなポップスを彩り、実際には存在しない(であろう)これまたキッチュな海洋生物(シュガー蟹やクレヨンタツノオトシゴなど!)をところどころに登場させながら描くこの物語は、どこまも「不思議な」物語だ。ウェス・アンダーソンの持ち味は(それは、一般大衆よりも批評家に受ける、短編小説的な持ち味とも言える)「ロイヤルテネンバウムズ」で見られるような、そののんべんだらりとした展開と、奇妙な登場人物たちの奇妙なやり取り、フランス映画に少し似たこじゃれた感じの色使いやセット―といったものだが、今回はその特徴が輪をかけて強調されているといっても良いだろう。

 ズィスーのダメ人間ぶりや、右腕であるドイツ人カール(ウィレム・デフォー)の大人子供ぶり、表情のない妻といったエキセントリックな人物たちが、舞台臭くおしゃれな船のセットの中で不思議な海洋冒険を繰り広げ、展開ものんべんだらりとしているのに、なぜか次に何が起こるのかは全く想像がつかない(!)。退屈なのに、退屈ではない―そんな表現が最も当てはまる映画といえるだろう。

 しかし、さりげなくちりばめられている「イタリア」の象徴―映画はさもヴィスコンティ然としたイタリアの映画祭から始まる―は、実はこれが「家族の肖像」であることを如実に表してもいる。

 ヴィスコンティの「家族の肖像」においては、「家族の肖像画」を集めている孤独な教授が、二階にいついた居候たちとつかの間の家族気分を味わい、(同性愛の匂いを漂わせながらではあるが)その中の青年の一人と親子のような関係を結ぶことになる。

 「ライフ・アクアティック」では、ズィスーと、実の息子であるかはっきりしないネッドが、そして、ズィスーの取り巻きのチーム・ズィスーが、まさにアメリカ版「家族の肖像」−血のつながらない家族関係−を描き出し、それは時に「得体の知れない何か」にそのメンバーを奪われたり、ついたりまた離れたりを繰り返しながらも、時に人知以上の美しいものに出会いながら、いわゆる「人生の航海」−ライフ・アクアティック―を続けていく。(フランス人ならセ・ラ・ヴィ!とでもいうところだろうか) 「家族の肖像」を、ある意味ウェス・アンダーソン風に焼き直したのが本作であるとも、言えるのかもしれない。

 さて一方で、この映画は「ドキュメンタリー映画の裏側」も見せてくれる。世界中でドキュメンタリー映画と銘打ったものに話題が集まっているが(最近ではさしずめ「ディープ・ブルー」などだろうか)、ドキュメンタリーと名がついているものでも、所詮作られたものでしかない―という事実をちらりとブラックに示してみせる。そもそも、この映画そのものが観客にとって死ぬほどうそ臭い!のに(潜水服を着て海賊の基地に乗り込む場面など、今はなつかしドクター・ノオのようだ)、その冒頭などで差し挟まれる「ズィスー」の記録映画―もちろんその背景に映るセットは同じである―は、やけにそこだけがドキュメンタリーのようなリアルさなのだ。その逆説的なアイロニーは、監督によって計算し尽くされたブラックな笑いのひとつであろう。

 ラストの、カールと同じ半ズボンをはいたいかにもドイツ人の少年を肩に乗せて去っていくズィスーの後姿に、ヴィスコンティの「家族の肖像」と、違った意味で、しかしなぜか同じ「変な話だけれど、妙に心が温まる」感を持たせてくれるこの映画は、やっぱり不思議としか言いようがないのである。


映画として 7.2/10
デフォー 10/10