「ボーイズ・ドント・クライ」  哀しい「青年」の物語

ボーイズ・ドント・クライ」 哀しい「青年」の物語

それは、1993年の出来事だった。アメリカ・ネブラスカ州フォールズ・シティ。中西部の閑散とした田舎町で、後に全米に報道されることになる、衝撃的な事件が起こった。町外れの農家で発見された二人の女性の死体。最初は、単なる殺人事件に思われていた。死体の一人、ブランドン・ティーナが、その町では、「青年」と思われていたことが分かるまでは・・・

 
20歳になるブランドン(ヒラリー・スワンク)は女性であるが、男装にカウボーイハットといういでたちで隣町に出かけるしたくをしていた。あの町ではゲイは歓迎されないという忠告も聞かず、「彼」はいそいそとでかけていく。

ブランドンは地元のバーで、若い未婚の母キャンディス、柄の悪い男ジョン、彼の弟分トムと知り合い、さっそく意気投合。やさしく、はにかみやで、女性扱いのうまいブランドンはすぐにこの見知らぬ土地に溶け込んで行く。そして、ジョンの恋人の娘、ラナ(クロエ・セヴィニー)に、ブランドンは一目で恋におちる。

 ジョンはラナの母親とつきあいながら、ラナを狙っていたが、すっかり仲間として打ち解けたブランドンになら、譲ってもいいと感じていた。ラナも、ブランドンのやさしさにひかれ、二人は恋人同士になる。恋人も、仲間も見つけたブランドンの幸せな日々。しかし、彼が「彼女」だと偶然にも知れたとき、すべてが反転する・・・。


これはまぎれもない実話である。監督のキンバリー・ピアースはノンフィクション・ノベルであるノーマンメイラーの「死刑執行人の歌」(今となっては、この作品の中に描かれる死刑囚の弟がかいた「心臓を貫かれて」のほうが有名かもしれない)や、トルーマン・カポーティーの「冷血」を参考にしたという。綿密に調査を重ねた上での、事実を踏まえた、フィクション。ピアーズは、死して語れないブランドンの内面を、ヒラリー・スワンクの確かな演技力を巧みに誘導し、しっかりと描いてみせる。その強さ、気高さ、哀しさ、そして儚さ。

 これは「本当の自分」を生きたブランドンの勇気と、孤独、そしてそれを裏切りと感じた周りの者たちの、摩擦と発火の物語である。瞬間でも本当の自分を生きることの出来たブランドンを、幸せと受け止めるべきか、いや、それとも、これはある「青年」のたぐいまれなる悲劇の物語と受け取るべきか。

アメリカは自由の国だという印象がある。まるで、ゲイはどこでも元気に闊歩し、ブラック達はいつも楽しげに踊っていて、貧しい人もいるかもしれないが、皆それなりに自由を謳歌している、と。
自由とは、自分で何かを選択する自由だ。選択を間違ったり、選択のない境遇におかれたとき、人はその自由の中でもがかざるを得ない。自分にとって正しい選択が、周囲にとってはそうでなかったブランドン、選択のない状況で青年期を過ごし、もがきから破裂への寸前であったジョン。この映画のすばらしい点は、犯罪を犯すことになるものたちも、人間として描かれていることだ。皆がもがき苦しみ、運命に翻弄される人間たちである。その点でこれは、単なる「犯罪を元としたフィクション」とか「性同一障害者の悲劇」にとどまらず、典型的な一見のどかなアメリカの田舎町にこそある「ひずみ」をうまく捉えた作品であるといえよう。

そして、ヒラリー・スワンク。彼女はこの映画でアカデミー主演女優賞など各種賞を総なめにしている。はにかみやで、きさくなブランドン。私たち女性にとっては、確かに魅力ある「青年」として、スワンクは完全に彼と同化している。これだけでも、一見の価値がある映画である。最高の女優、ヒラリー・スワンクに、どうかまたすばらしい役が廻ってきますように!(「真珠の首飾り」はまあまあだったけど、「ザ・コア」とか「ギフト」とか「インソムニア」とか・・・・いつもうまく演じているけれど、もっともっと、力を発揮できる作品にめぐり合えますように。)