華氏9/11(1)

華氏9/11 批判と声と映像と (1)

 はじめに言っておこう。私はマイケル・ムーア本人は好きではない。メディアに現れるその姿は、「アメリカ的な、あまりにアメリカ的な」、エキサイトしやすく、あまりにストレートに己の主張を語り、お世辞にも知的とも素敵とも言えないからだ。

 しかし、彼本人のマスメディアへの露出の仕方への嫌悪感と、この映画自体のできばえは、全くの無関係である。ムーアが気に食わないから、この映画はだめだ、と簡単にいってしまうのは、嫌いな女優さんがでてるから、あの映画はだめだといっているのに近い。(私の場合、ペネロペが嫌いだから「オールアバウトマイマザー」はだめだ、となってしまう!)

 正直、私でさえカンヌでこれがパルムドールをとったときには、驚いた。その内容を、純然たる「ブッシュ批判」と聞いていたからだ。(そしてそれはおおくは、本当だ)
 ムーアが、自分の言い分を正しいと証明するために、うまい具合にその裏づけをしてくれるものだけをつなぎあわせ映像としているのは、「ボーリングフォーコロンバイン」でいやというほどわかった。だから彼のドキュメンタリーは、ノンーフィクション(非・作り話=事実)を究極に再構成し、観客を逆洗脳するのが目的であるから、話半分で聞いてちょうどいいのだろうということも。
 (しかし話半分に聞いても、アメリカの銃へのいわれのない依存度は、充分にひどいものであるので、見た人数くらい洗脳してもいいだろうという気にもなる)

 そして今回の「華氏9/11」である。
タイトルは当然ブラッドベリの言論が制限され思想を持たぬために焚書坑儒が横行する社会を描いた「華氏451」からきたのであるが、(ブラッドベリ本人はご立腹らしい。使用するときに許可を得ないムーアの落ち度だ)作品を見ながら、私はむしろ全てが政府の制御下に置かれる管理社会を描いた、ジョージ・オーウェルの「1984」を思い出した。実際、映画のラストでは長々とオーウェルが引用される。

 であるから本当は、この映画のタイトルは華氏<ブラッドベリからの引用>9/11<オーウェル風に日付を>なのではないかとひそかに思っている。それは、キャッチフレーズの「自由が燃える温度」というよりも、「自由が燃え始めた日」である。それではだれの、どんな自由が燃え、消えていったのか。映画は痛烈なブッシュ批判と、この消えていった自由について、画面いっぱいにさまざまな映像を展開してくれる。

 私はこの映画を「話半分に」見たが、それでもこの映画が批判していることは真実であろうと直感的にしっている。なぜならアメリカという国の外にいたからだ。

 思えば、日本人の誰もが9.11に衝撃を受けながら、その後のアメリカのイラク侵攻その他の動向に、「アメリカ、どうよ?」と感じたのではなかったか。問題は、多くのアメリカ人が、あの状態を「どうよ?」と思わなかったことにある。そこまで熱心にニュースを見ていたわけでも、アメリカの議員の名前をしっかり覚えているわけでもなく、ただお茶を飲みながらドラマの合間に見ていただけで、「どうよ?」と多くの日本人が思ったのに、なぜアメリカ人はそれを鵜呑みにし、ただひたすらにアメリカという国が動かされるほうに進んでいったのか。

ムーアの映画を見なくても、そこに言論規制や検閲、おそらく政府の息がかかったマスメディアによるマインドコントロールが存在したであろうということは、想像にがたくない。

そしてもちろん、その全てをひきおこしたのは、あのテロと、他でもないジョージ・ブッシュである。

 そもそも当選のときから怪しかった世界最強の七光り野郎ブッシュ・JRは、原稿無しに話させたら右に出るものがいないほどのからっぽなおバカさんである。(こんなこと、ムーアの映画を見なくたってアメリカ人以外誰でも知っている!)
 ウサマの親戚のビンラディン一族(アラブ商人の中ではトップの財閥で、アメリカの数々の大企業と以前から巨額の取引があった)が多数アメリカに滞在していたのを、なんの事情聴取も無く、テロ後なんの飛行機も飛ばなくなった状態の中で、とっととチャーター機でアラブに逃がしてやったのは、まぎれもなくブッシュ本人の決定である。
 「イラクには大量破壊兵器があるー!」と言い張って、がんがんと侵攻を進め、テロの首謀者そのものではなく、いつのまにか「イラク」を悪者にしていたのも、彼だ。日本人はこの辺で、「ん?アメリカ、変だぞ?」と感じたはずだ。

 なぜ、アフガニスタンでも、テロリストでもなく、イラクなのか。ムーアはビンラディン一族とブッシュ家の、金と欲にまみれた関係を多数の資料と映像から暴いていく。ムーアとて、たとえ事実を湾曲しているとしても、捏造はしていないであろうから、それらの事実はかなりの衝撃である。

 が、ムーアのブッシュ批判は、たとえ全てが事実としてもあまりに直球で、感情的で、容赦が無い。
 ただの育ちのよいおバカさんに過ぎないブッシュが、少年のような顔で何をしたらよいのか途方にくれる姿が、しまいにはかわいそうに思えてくるほどだ。

 また、ブッシュがアラブの王子と親しかったことや、テロ後もラディンの息がかかった石油商や会社役員たちとの取引を国が続けていることなどもかなりの皮肉とともに痛烈に批判しているが、この辺は国益のこともあるであろうから、(国民感情的には別としても)、仕方が無いことであるように思われる。

 そういった行き過ぎた、あまりに感情的な批判という点でこの映画を、「個人の政治的思想をぶちまけただけの、アジ映画」(プロパガンダ映画でもよい)と呼ぶのは、仕方が無いように思われる。
 しかし、そこだけでこの映画を切り捨ててしまう人は、この映画の三分の一しか見ていない人だ。

 この映画は、行き過ぎたブッシュ批判であり、同時にアメリカという国が相手にしなかった「見捨てられたものたちの」声であり、そして何より、よくできた「映像作品」である。

タランティーノはカンヌの審査委員長として、この映画の受賞理由を「政治的だからではなく、映画として面白いからだ」と語ったらしいが、私もその通りだと思う

それでは後半の二つの点は、明日あさってへの続きとしよう。