華氏9/11 (2)

 昨日たくさんのかたからコメントをいただいたが、やはりムーア本人は、日本人にはあまり好印象を抱かれていないことがはっきりしたように思う。やはりあの、あまりに激情的で直球勝負なブッシュ批判が、日本人には濃すぎて受け付けられないのであろう。

 映画の中におけるブッシュ批判もまた、たたみかけるほどに、激情的で、しつこいほどにエキサイティングである。映画全体が、さまざまな音楽(その多くはロックである)で盛り上げられながらそんなハイパーなトーンで進行するのだが、そのトーンが、ぐっとさがるところがある。

 真っ暗な画面に、爆撃の音が響き、そのあとは淡々とスローモーションで(ここでの音楽は、不確かだが現代音楽のグレツキではなかったか。誰か情報お願いします。)で逃げ惑う人々と廃墟によって映し出される、9.11。そして、時節さしはさまれる、戦争遺族たちとのインタビューの場面である。

私は、この二つに関してだけは、「話半分 」のスタンスは取れなかった様に思う。9.11はアメリカにとって自業自得だと思う人(これに関しては過去の日記で書いたことがある。これを読んでも、まだ自業自得だといいますか?それなら、結構。)には、9.11はたんなるスペクタクルでしかすぎないのかもしれない。
が、戦争遺族の話は、もっと深刻だ。

 アメリカのジェシカリンチ上等兵の話を覚えているだろうか。捕虜としてイラク兵にとらわれ、その後奇跡的に救出されて大ニュースとなったが、結局ニュースが伝えていた大半の戦闘時や救出時の状況は、アメリカ軍部による作り話であったことが後に本人の暴露で判明、話題を呼んだ。
 
 さて、私が注目したいのは、彼女が「大学生」になるために、兵士に志願したということだ。アメリカでは軍隊に一定期間入隊していると、学費が免除されるというシステムがある。私は彼女のニュースを見たときにこれについてはじめて知り、それなら、貧乏人が大学に行きたかったら、軍隊に入るのが一番早いよね、と思ったものである。

 そしてムーアはこのことに焦点を当てた。われわれがこの制度について簡単に考えると、それはあたかも、「お金のない学生を救うすばらしい制度」に思えるかもしれない。しかし、果たして実際にそうだろうか?とムーアは問いかける。

 アメリカには、何の産業もなく、若者が多くいても失業するか、夢を見て大都会にただ出て行くか(そしてその一部の者たちは職も見つけられずに麻薬やセックスといった産業に手を染める)しかないような、貧しい田舎町が点在する。(これは、私も知っている、事実だ)何かひとつでも企業があるとか、農業地帯であるのなら、まだいい。しかしたとえば、大手の工場が撤退してしまった町、近くに大手のショッピングセンターが出来てしまった、小さな商店街の町・・こういった町のその後は、深刻だ。
 まず親が路頭に迷う。子供は義務教育として高校までは通うものの、その後の道は閉ざされている。大学へ行きたいと考えても、奨学金は極わずかなものたちしか受けることは出来ない。自分で稼ぐにも、仕事がないのだ。

 そんな青年たちが、「軍隊に入ったら、手に職も尽くし、大学に行くなら学費も免除になるんだよ」と、聞く。親たちもまた、これをすすめざるを得ない。なぜならそれが子供にとって最良の選択肢であるからだ。

 産業のないすさんだ町で少年期を過ごした若者たちが、あるものはすさんだ気持ちのまま、あるものは将来を夢見て意気揚々と、軍隊に入る。そして、イラクへと送られ、それぞれらしい戦闘をして、死んでいく。

 これはアメリカという国の、巧妙な策略だと、私はリンチ上等兵のときから、感じていた。われわれ日本人が思っているより、アメリカの貧富の差は激しい。一般に有色人種の人たちが差別を受けたりと貧しいというイメージをもたれがちだが、実際にはそれに加えて、貧乏な白人、も多く存在する。(彼らはアメリカでは最悪の状況に置かれる。白人の癖に・・という接頭辞つきでののしられるからだ。)
 「アメリカンドリーム」という言葉を聞いたことがあるであろう。とてもわくわくするような、ポジティブなこの言葉のベースは、もちろん、「貧乏人」だ。上の世界とは明らかにくっきりと分かれた、「社会の底辺」があるからこそ、アメリカンドリームという言葉は存在し続けているのだ。

 アメリカには、われわれ日本人や、標準以上の暮らしを営むアメリカ国民には伝えられることのない、「底辺」が存在する。

ムーアは、その底辺に置かれ、やむなく戦争に行った、若者たちの姿を、はじめてスクリーンにのせたのだ。

 兵士になりたくて兵士になった若者の死を悼む親の悲しみと、大学生になりたくて兵士になった若者の死を悼む親の悲しみは、違う。ムーアは彼らの声を、いつものあのトーンではない、静かでやさしい視点で、淡々とつなげていく。マスメディアに露出するあの激情型の彼とは違う、思慮深い彼の後姿がそこにはある。映画の後半は、あきらかに彼らにささげられたものなのである。

 が、そこはムーア、もちろんこういった、涙腺を動かす衝撃を、ラストであの人のせいにするのは怠らない。あざとく考えれば、ブッシュへの憎しみをあおるために、あえて常にかき消されていた彼らの「声」をとりあげたにすぎない、ともいえよう。が、しかし、たとえそうにしろ、彼らの存在とその声を、はじめて劇場で、世界中の人たちに伝えたという、そのことは評価してやるべきではないかと思う。

また、この映画を見て、私はムーアが、体を張ってアメリカを試しているのだと感じた。

言論統制がまかり通り、個人情報を国が管理する法律が成立し、国に都合の悪い情報はマスメディアですらとりあつかわなくなったアメリカで、 しつこいほどあきらかに、アメリカの現職大統領を批判する、ただそれだけの映画を作る。
 マスメディアに出るたびに、口汚く大統領とアメリカの政策をののしる。

 この映画に、政府の規制が及ぶのなら、アメリカはもう、だめだ。
 この映画によって、自分が変な死に方をするなら、アメリカは、ますます悪いほうに進んでいる。
 この映画が、アメリカ国内で受け入れられないのなら、国民はすで国家の手の内だ。
 そしてこの映画が、世界中で受け入れられないのなら、世界はすでにアメリカの手の内だ。

彼は、体を張って皆を試したのだ。
そしてタランティーノは、パルムドールを与えることで、彼を、守った。

くれぐれも言っておく。
私は、ムーア本人は嫌いだ。
品もへったくれもない。

が、映画と、自分自身をえさにして、自分の国を試すという彼の手法と、その心意気には、惜しみなく拍手を送りたいと思っている。

ムーア監督よ、あなたの試した結果は、どうですか?