「ガタカ」            (1) SFとしてドラマとして

ガタカ」 (1) SFとしてドラマとして

 ずいぶん前の映画でありながら、語られる機会の多い作品である。かつて映画館で見たものの出来の悪いSFであるという印象があったため、もう一度見直してみようと思い立った。

 今回の鑑賞の結果、これは、秀逸なアイデアの、出来の悪いSFで、そして、非常にきちんとした命題を抱えたよくできた人間ドラマであるという結論に達した。今日はその三つの側面からこの映画を考えてみたいと思う。今日は全般的に紹介というより批評になるから、この作品を見た人向きである。(ねた、ばれます。ばれてまっせ)

 まず、この映画が秀逸なアイデアであることに異論を唱える人はまずいないであろう。ガタカでは、社会は遺伝子操作の方法をすっかり会得し、ほとんどの子供たちは、マイナス要因を極力まで排除されたエリートとして生まれる。街角には、体の一部や唾液もって行けば、安い金で遺伝子情報を解読してくれるスタンドがあるし、会社や学校では遺伝子情報を元に社員獲得や差別をあたりまえのようにしている。

 これは1997年の作品で、今から8年ほど前に書かれた脚本によるものなのだが、当時はヒトゲノム解析でまだ四苦八苦していた時代であり、遺伝子療法によって病気を治すといったことはまだ、「リアルな夢」であったころである。(現在ではヒトゲノム解析もとうに終わり−開始したのは1990年であったがーご存知の通りクローンから病気治療まで現実になった、または確実な現実になりつつある)その当時に、その「夢の世界」でおこりうる負の可能性を、きわめてありえそうな未来ー遺伝子技術発達による差別の広がった社会ーを描いて見せた。それがまず、この作品で最も評価されるべき点である。

 しかしながら、私がかつて映画館でこの作品を見たときの感想は最悪であった。スタイリッシュSFと銘打たれた宣伝文句は、まちがいであったからである。

 この映画はスタイリッシュではあるが、間違いなく、SFとしてはお粗末な部類である。アイデアとしてはすばらしいのであるが、その装置が、そのバックグラウンドに穴が多いのだ。宇宙ロケットが普通に毎日打ち上げられている世界で、なぜか人々の交通手段は現在と同じ形の車であり、刑事はおきまりのコートといういでたち。雰囲気はSFくさいが、ストーリーにアラは多く、遺伝子差別でエリートしか入れないはずの会社に、心臓が悪く地球上の任務しか出来ないというアイリーン(ウマ・サーマン)が入り込んでいる(最も、彼女も主人公ビンセント(イーサンホーク)同様相当の苦労をしているのかもしれないが)。
 ビンセントがありうるであろう抜きうちテストをどうやって潜り抜けているのか。コンタクト装用がなぜばれずに済んでいるのか。なにより身長を伸ばす手術をしたのに、それについては何も問われずにすんでいるのはなぜか?案外全て、優秀な遺伝子だから、ということで多めにみてもらっているのだろう、とでも考えればいいのだろうが、それにしてもあまりにもSFとしてはあらが多いといわざるを得ない。
 SFとはリアルに未来を描くからこそ成り立つ分野である。リアルでなければそれはファンタジーの領域だ。その点で「ガタカ」は、スタイリッシュファンタジー、せめて、スタイリッシュ近未来ストーリー位の呼び名で、呼ぶレベルのものであると思う。

 さて、SFとしてのこの作品をこきおろしたところで、逆に、この作品からSFというジャンルを骨組み以外取り除いたとき、そこに残るのは、非常によく出来た、考え抜かれたドラマである。作品の最初に、二つの言葉が引用されている。「神が曲げたものを、誰が直すというのだろうか?」と「自然は挑戦をまっている」だ。この作品の命題はこの二つの引用に集約されている。

主人公のビンセントは、遺伝子操作を受けない「神の子」(と一般にガタカの世界では言われている)=「神が曲げたもの」であり、その「自然」とは、親や遺伝子診断がいうところの、寿命は30歳、や、心臓疾患、といったことだ。ビンセントが遺伝子操作を受けた弟より断然体が弱く、小さく、体力で劣るのは当然の「自然」のなりゆきである。しかし、「自然は挑戦をまっている」−ビンセントはある日、弟に海(=生命の源だ)で遠泳の戦いを挑み、彼に勝つ。勝つはずの無い弟に勝ったという事実は、ビンセントにとっては全てが完璧に人間によって仕組まれたはずの世界に、ほころびがあるときがつかせ、また、自分という自然へ、挑戦を挑むことを決意させた。ビンセントはここで、生まれ育った我が家を後にする。

 その後の彼はある裏筋から遺伝子情報を売る元オリンピック選手の障害者ジェローム(「リプリー」でもなりすまされていた、なりすましたい男、ジュード・ロウ)の遺伝情報をあらゆる方法で携帯し、宇宙会社(この設定も曖昧である)ガタカに入社するのだが、ここでビンセントは完全な「適正者」を演じきる。表情が無く、仕事には一点のミスも無い。毎晩からだの垢を皮膚がすりむけるほどこする彼の努力は涙ぐましいものだ。それも全て宇宙へ行くため、である。
会社の窓からロケットの閃光を見上げているのは、彼と、同僚のアイリーンだけだ。彼が完全な適正者と信じ込んでいる彼女は、彼の欠点を探そうと躍起になっているが、実際は、ビンセント=ジェロームに自分は本当は心臓が悪いのだと打ち明ける彼女は彼への憧憬の念で一杯だ。本当に空に憧れているのは、エリートばかりのガタカの中で、彼女と、ビンセント=ジェロームという二人の不適正者だけである。不適正であるからこそ、不完全であるからこそ人は夢を抱くのだ。

 さて、本物のジェロームは自分の人生を「オリンピックは二等しか取れなかったし、自殺すらやりとげることができなかった」、”最後まで物事をやり遂げることの出来ない人生”と表現する。しかし夢の実現に向かって努力を惜しまないビンセントを見るにつけ、そして彼の友情にふれるにつけ、ジェロームはそれまで浸っていたアルコールも絶ち、ビンセントのために尿や血などの献体を献身的に準備し始める。かつての彼とは違い、いきいきとしたジェロームの表情はすがすがしく、なにかをやりとげようとするやる気に満ちている。ビンセントの宇宙行きが決まったとき、最も喜んだのが彼であり、そして彼は「やり遂げることの出来ない人生」に終止符を打つ。垢などを焼く焼却炉に自分を押し込み、スイッチを入れるのだ。その姿は、最高の遺伝子を持つ男の姿としてはまことに惨めで痛ましいものだ。しかし、彼の胸にかけられた銀メダルには、炎が映り、今やそれは金メダルだ。彼は今度こそやり遂げた。ビンセントの夢と共に。

 一方ビンセントには越えなくてはいけない壁があった。それは、弟の存在だ。男性同士の兄弟とはえてして競争相手であるのはどこの世界でも同じであるが、遺伝子操作を受け両親の寵愛を受けたエリートの弟に、惨めな少年時代を過ごした不適正者の自分が勝つということは、それだけで相当の意味を持つ。青年時代に弟に勝ったことを、弟はまぐれだと言う。二人は再び最後の勝負へと海へ出る。そして、ビンセントは、再び弟に勝つのだ。この勝利は、非常に複雑な意味を持つ。まず、人為的に完璧であるもの(弟)への、自然(ビンセント)の勝利。そして、生来弱い遺伝子である自分、すなわち自然への、努力の勝利、である。「神が曲げたもの」は誰も直すことは出来ないのであり、そしてまた自然への挑戦へ、ビンセントは勝ってみせたのだ。

 心臓が悪く走ることすらしたことがないというアイリーン(ならどうやってガタカに入社したんだ?とつっこみたくなる気持ちはここでは抑えよう)に、ビンセントは言う。「やってみなかったんだろう?できないといわれたことだから、やってみなかったんだろう?」自然への挑戦を挑んだビンセントは、宇宙へと旅立ち、アイリーンは地上でそれを見守る。そして映画は終わる。

 かつてこの映画を見たとき、私はビンセントは宇宙で心臓発作でも起こすのではないか、とぼんやりと考えたものだ。が、今はちがう。自然に挑戦し、自分の夢を成し遂げるためにそれに勝利したビンセントは、きっと宇宙でも功績を残し、地球に戻ってくるのだろう。ビンセントの名字を知っているだろうか。彼の名前は、ビンセント・フリーマン。ビンセントは神の意志の元、自由を生きる。彼は神に曲げられたものであり、同時に、だからこそ、神に守られたものなのだ。(2へ)