モンスター    

「モンスター」 アメリカの車輪に巻かれて

(批評ですので、ネタバレが含まれます)

 かつて「無知の涙」という本があった。永山則夫という死刑囚(少年時代に4人を射殺)が、獄の中で独学、自らの人生を反芻し、その犯罪をするにいたった経緯、心理などを語った作品である。そこに描かれるのは社会からはじきだされた人間がどのように犯罪に手を染めるようになるのかであった。
 永山則夫同様実話である「モンスター」はある意味ではこのアメリカ版であるのだが、そこには複雑な、「アメリカ的な、あまりにアメリカ的な」ものが描きこまれている。


娼婦であることに疲れきったアイリーン(シャーリーズ・セロン)はある日、酒場でセルビー(クリスティーナ・リッチ)というレズビアンの少女と出会う。少女の純粋さに強くひかれたアイリーンは、彼女と暮らすための金を稼ごうと客をとるが、客に殺されかけ抵抗、逆に客を射殺してしまう。セルビーへの愛と、とがの外れた男たちへの怒り。暗く新たな彼女の人生がはじまった・・・・。


 作品は「アメリカン・ドリーム」にどっぷりとつかる少女時代のアイリーンから始まる。男性にとってのそれは、成功したビジネスマンになり大金持ちになることかもしれないが、少女のそれは、まず「美しい女性」になることだ。男性に愛され、もてはやされる「美しい女性」。美しければ、そして少女がその意味をしっかりと理解していないにしろ、性的に魅力的ならば、男性が見出し、ひきあげてくれる。アイリーンはそう信じた。が、現実には美しくない彼女は、もう、とうに最初からあぶれてしまっていたのだ。
 
後にアイリーンがレイプ被害者であり、貧困家庭の出身で13歳から売春を始めたことなど、生まれもって大国アメリカの底辺に身を置いてしまった彼女の人生が少しづつ明かされるのだが、そんな彼女に学校ですりこまれるのは、「夢は信じればいつかかなう」というメッセージだ。学校の講演会で来た有名人の話、周りの大人たちの語ること。「アメリカン・ドリーム」と、常に前向きな「アメリカン・ポジティブ・シンキング」が、貧困で美しくなく、学もない少女の心に巣食うと何ができあがるのか。実態の無い夢だけを心に抱いた、うつろで疲れきった売春婦である。
 そして、売春婦であることでよりさげすまれ、男たちに暴力をふるわれる彼女のうつろな心には、絶望と、アメリカの塵がつみかさなっていたのである。

 一方セルビーは、アメリカの中流以上の家庭の出身で、レズビアンであることが露呈しそこからはみだしてしまった存在である。大人、とりわけ厳格で成功者である父親に守られて生きてきた彼女には、「生きる」力が無い。生きるために働き、食べるために何かをする、という生活感が無い。自分で何かをしようという、行動そのものが無い。アメリカの中・上流世界の価値観のうつろさに反発しながらも、それに飲み込まれて生まれ育った彼女は、確かに純粋ではあるが、これまた愛に飢えた、からっぽの存在である。

アイリーンはセルビーに自分には縁の無かったものを見出す。こぎれいで、純粋で、片足が折れた小鹿のように、人の助けなしには生きていけないような繊細さ、美しさ。

セルビーはアイリーンに 荒々しい感情や、行動力といった、やはりそれまでの自分になかったものを見出し、自分の知らない世界に生きてきた彼女に「格好良さ」を感じる。

「男」の傲慢さ、残虐さに嫌気がさしていたアメリカの底辺の売春婦と、「男」の付属物としての「女」になりきれずアメリカの上部からはみ出てしまった少女。


この二人の組み合わせは、とてつもなく哀しく、成就などあろうはずがない。

なぜなら、二人の出会いは、アメリカの病理の出会いだからだ。

作品のタイトルである「モンスター」は、連続殺人犯となるアイリーンをさしてはいるが、そもそもは彼女が少女時代に乗り吐き気をもようしたという大きな観覧車の名前である。

 赤と黄色のけばけばしいネオンをつけ、ゆっくりと、回り続ける、美しくも毒々しい観覧車。それは、アメリカという社会そのものだ。
 最も高いところからは全てが見渡せるが、その反対側、一番下に乗るものに見えるのは、下を歩く者だけ。一番下が、一番上になることもあるし、一番上が、一番下になることもある。けれど全てが同じ高さになることはけっしてありえないし、そしてなにより、そのきらびやかなネオンは美しくもうそ臭く、毒々しくて、そして吐き気を催させる。

その観覧車で、アイリーンとセルビーは、並んで座ろうとした。それぞれの場所を捨て、横に並び、幸せをつかもうとした。けれど彼女たちが乗っているのは同じ観覧車−アメリカなのだ。けして廻るのをやめない、大きな観覧車。彼女たちはどんなにあがこうと、そして帰る場所の無いアイリーンが、どんなにもがこうとも、そこからは降りることが出来ないのだ。 

・・・・・・・・・・・・・・・

異常者の客に捕まり、殺されかけたアイリーンが男に向って銃を撃ちはなったとき、彼女の中でなにかが外れた。それまでたまっていたアメリカの塵が、はじけたのである。

アメリカン・ドリームの中身とはなんだろう。
容姿を認められてスターになり、お金持ちになる
なにかアイデアを認められ、有名になり、裕福になる

アイリーンはその両方を試し、その双方にあてはまらなかった。
社会の底辺出身の彼女には、学をつけて社会に出る、という選択肢も無かった。そして、社会は彼女を拒絶し、彼女もまた社会を拒絶した。彼女はアメリカ全体から「あぶれて」しまった。

が、そこに、もうひとつのアメリカンドリームがあった。
それは、犯罪者、という範疇だ。
厳密にはもちろんよい意味ではないのだが、マスコミがそこにただよわせる「クールさ」
簡単に手に入る「キャッシュ」のイメージ
銃はその全てを可能にするし、何より簡単に手に入るのだ。
これがアメリカ的な夢想でなくして、なんであろうか。
いや、呼ぶならば、「アメリカン・ナイトメア」と呼ぶべきなのかもしれない。

アイリーンはその中に、居場所を見つけてしまった。
生きるための希望を見つけてしまったのである。

怨恨以外での殺人犯、とくに連続殺人犯の多くは男性だというのはいわれることであるが
アイリーンは男を殺すたびに、男性と同化して行く。
言葉遣いはよりあらあらしくなり、その立ち振る舞いはまるで彼女をぞんざいに扱った男たちと同じになって行く。
彼女が「なじむことのできる世界」がとうとう、見つかったのだ。

警察から追われる恐怖や、罪の意識を、アイリーンはセルビーへの愛と、小さいときから刷り込まれてきた「アメリカンドリーム」と「ポジティブシンキング」で、払拭しようとする。これがうまく廻っているときはよいが、もちろんそうはいかない。歯車が狂いだすと、最後のときが来るのは早い。

アイリーンは死刑となって人生を終える。

この映画を見て二通りの感想を持つものがいるだろう。

アイリーンは社会の犠牲者である。

社会の問題にしろ、犯罪を犯すにいたったアイリーンが悪い。


映画は前者よりであるとは思うが、私はそのどちらも正しいのではないかと思う。社会から長くはじき出されていたために、その中にもう一度はいる姿勢というものを、どうにか身につけられなかったアイリーンにも責任があるとは思うからだ。しいていえば彼女の孤独ゆえの無知が全ての原因かもしれない。いや、映画は、それを救ってやれない社会に責任があると示唆しているのかもしれないのだが・・。

しかしこの映画は、彼女がどうやって作られ、どうやってそのものの考え方、感じ方を持つにいたったのかを、実にうまく描き出している。

 最初から社会の底辺に生まれ、レイプされ、売春婦へと落ちるも、常に心には「アメリカン・ドリーム」が、「ポジティブシンキング」がある。けれどその二つは、現実を認識した上でなら正だが、現実を見たくないものにとっては、全くの負なのだ。負が「アメリカン・ドリーム」の対極の夢にすすむのは、当然ではないか。
 アイリーンは「プリティ・ウーマン」のジュリア・ロバーツの裏だ。男によって引き上げられる夢からもあぶれ、自分を引き上げることも出来ず(ワーキング・ガール?)、彼女は「アメリカン・ナイトメア」を選択したのである。

 アイリーンはアメリカの病理そのものである、とこの映画は言う。アイリーンは連続殺人犯の「モンスター」であり、そのモンスターを作ったのが又、観覧車に象徴される、うそ臭い夢に満ちて回り続ける「モンスター」アメリカである。そう、この映画は訴えているのだ。

演じたのはこれでアカデミー主演女優賞を獲得したシャリーズ・セロン。日本人には、ラックス・スパ・モイスト の人形のような人としておなじみのはずだが、メイクと増量によって別人の、アイリーンそのものとなっている。演技には多少おおげさなところがある気もするが、渾身の演技であることには変わりない。

セルビーには永遠の少女クリスティーナ・リッチ。helplessなセルビーを自然体に演じている。

監督と脚本はこれが初作品のパティ・ジェンキンス。アイリーンの事件にフェミニズムのにおい(フェミニズムでは、シスターフッドといって男性に虐げられたものは女性同士で助け合う、という考え方があるが、セルビーとアイリーンは男性と女性の役割分担で女性同士が生きようとするために悲劇を増殖させる)を嗅ぎ取ったのではないかと思われる、女流監督である。良いテーマに出会えば、またすばらしい作品を作ってくれるのではないかと思う。

映画として 8/10
思索の元として 9/10