イン・ザ・カット

イン・ザ・カット」  サスペンスにフェミニズム

 (批評ですが、ネタバレはしていそうでしていません)


In The Cut−ホームページによれば、語源は女性器であり、転じて、秘密の部分、安全な隠れ場所の意味であり、また、ギャンブラーが他人のカードを盗み見るときに使う言葉でもあるらしい。

 タイトルどおり、のっけから女性器のスラングの話で始まるこの映画は、「フェミニズム」の映画である。

 たとえば、フェミニズムの先導的学者アドリエンヌ・リッチ。彼女が女性器を語るとき、それは男性に闘いを挑むときだ。男性は非常にしばしば自らの生殖器について口にするが女性はめったにそれを口にしない。(同時に、男はそれを字義通り口にするよう要求するが、女性はめったに要求しない、という意味でもある)

 また、フェミニズムでしばし語られるのは、男性器なしで女性は容易に快感を得ることができるということだ。女性にとっての男性器は、男性がしばし女性に言うような「不可欠」なものではないという事実。これは実はフェミニズムでしばしば取りざたされることである。

 このフェミニズムの性的な一面を知っていると、このサスペンスはそれだけでおのずと犯人が、わからないまでも、そうでない人間を非常に最初から除外できる。つまり、上で書いたことを知っている男性は犯人ではない、ということだ。

 そして、また、そういったことを念頭においてみれば、この映画が単純なサスペンスではなく(もちろん、勘の鋭い人はフェミニズムについて全く知らなくても容易にその真意が分かると思うが)、連続猟奇殺人や、サスペンスの構図の中に、男女の格差を見出したがためにその体裁を借りた作品であることもすぐにわかるであろう。

 映画は「ケセラセラ」という古いポップスからはじまるが、この歌詞は少女が大きくなったときに、かわいく、また愛される人になるかしら?(そうなりたいわ)という、一般に女性に押し付けられがちな「理想的女性像」を歌っている。そこに登場するのは、主人公の妹だ。彼女は性的に奔放な女性だが、愛し下手で、結婚願望も強い、まさに「ケセラセラ」の歌の通りであり、またどこかでその歌にたどり着くはずの道を踏み外してしまった人間である。
 その彼女が「結婚への憧れ」をモチーフとしたブレスレット(乳母車や教会、赤ちゃんの飾りなどがついている)をプレゼントするのは、大学で国語(これを「英語」と訳す字幕は私はいただけないと思う。黒板に書いてあるのは文学的事項であって、英語という語法ではない。日本の国語の授業と同じ、読解の授業である・ちなみに内容はヴァージニア・ウルフの「灯台へ」と意識の流れについてであった)を教える姉フラニー(メグ・ライアン)である。ちなみに、英文学で「エブリマン」という人間そのものを描いた古典があるが、この、対照的な二姉妹の名字はエブリーという、二人で全女性を示唆する名前となっている。

 姉のほうはタイトルそのままの、自分を外界から、また自分の無意識の欲望ーそれは性的なものとして比ゆされるがーから隔離し、「言葉」という隠れ家に逃げ込んでいる女性である。結婚や子供を作るということはもちろんのこと、数度寝た相手も彼女には用のない相手だ。彼女は全てから、そして自分からも自分を遠ざけている存在だ。

その彼女が偶然居合わせたバーで見た女性が殺され、その容疑者らしき男性を見ていることから話は始まり、絡んでくるのが、彼女に「イン・ザ・カット」してくる刑事、次々と続く連続殺人と、刑事と彼女の性的な駆け引き、やりとり・・といった、プロットだけ書くとお決まりのサスペンスの構図である。

「モンスター」の主人公は実在の連続殺人犯であったが、世界的に怨恨からではない連続殺人犯、ましてや猟奇殺人犯となると、女性の犯人というのはめったにいないそうである。

 それは映画の世界でも同じだ。そこそこ映画を見ている私が思い浮かぶ連続殺人の女性犯は、「モンスター」と「シリアルママ」、レベッカ・デモーネイの某作品くらいしかぱっとは思い浮かばない。一方現実にも映画にも、膨大な数の男性の連続殺人犯がいて、彼らの殺害対象は女性であり、少女であり、そしてしばしば彼女たちはこれでもかというほど切り刻まれる。

 ジェーン・カンピオンは、この犯罪の構図、ひいてはサスペンス・ホラー映画の構図に、男性と女性の「性の絡んだ日常的光景」の象徴を見たのだろう。性行為は時に結婚や愛をちらつかせながら男性が主導で行われ、女性の欲望よりも常に男性の欲望が優先される。使われるだけ使われた女性は、女性が「いるべき場所」、洗濯機や、庭いじりの場や、娼館へと取り残される。そして女性の欲望は口にされることのないまま、葬り去られる。

 もちろん現代はそんな時代ではないという反論が出そうではある。女性も性的に男性同様奔放だし、強い女性も多くて家庭では男性を組み敷いているのが普通だ、と。ある部分では確かにそうかもしれない。が、たとえば性的に奔放な女性は「ふしだら」という蔑称があるのに、それが男性に使われないのはなぜか?女性が大勢の人の前で女性器についての話をしても、冷たい目で見られることはなく、男性がそうするときと同じように、「あいつ、おもしろいよなぁ」と言われるだけで果たしてすむだろうか?と問うたら、どうであろうか。「そう」でない時代は、まだ来ていない。だからこそこの映画のために、メグ・ライアンは脱ぐことを決めたし、ニコール・キッドマンは製作を買って出たのだ。

 映画の中ではさまざまな象徴が入り混じって使われる。主人公の後ろを通り過ぎる「母の日の花束」、「何かから逃げる女性たち」、さしはさまれる主人公の両親による「恋愛と結婚の夢物語」や、地下鉄の中の詩。

 「めぐり合う時間たち」の中のあの深い川であり、「テルマ&ルイーズ」ででてくるあの断崖でもある「カット」の中に入り込み、その中を模索することで男女間の新たな関係を模索しようとする、フェミニズム映画としてのこの作品は、そのテーマを汲み取るべき佳作であり、及第点であろう。

 が、残念なのは、そのストーリー展開のキレと、カンピオンの「都会を撮る技術」の下手さである。脚本段階では本当にすばらしい作品であったのかもしれない。が、カンピオンの映像化への力量不足(大自然はあんなに上手にとっていた彼女であるのに!)が足を引っ張ってしまった。その点が「サスペンス」として見た場合のどうしようもなさ(しかし普通に見た場合散漫ではあるものの犯人はそこそこわかりづらいとは思う)や、映画としての散漫さとなってしまったようである。
 せめてサスペンス映画の「テンポ」だけでも学んでくれていたら、一流のサスペンス映画であり一流のフェミニズム映画でもあるものが出来上がっていたかもしれない、と思うと、本当に残念でならない。

 フラニーが、ウルフ作品の主人公がたどり着けなかった「灯台へ」いくとき、何を見つけ、どう結末を付けるのか。女性には、どうか途中で投げてしまわずに、その真意を汲み取ってほしい映画である。

追記: 主人公が愛する刑事役がセクシーでないのが一番の失敗に思えるのだが・・・。