半落ち
「半落ち」 問いかけとしてみる、日本映画 (ネタバレ無し)
「半落ち」とは、容疑者が容疑を一部だけ自供し、完全には明かしていない状況をさす警察用語。
私、梶聡一郎は、3日前、妻の啓子を、自宅で首を絞めて、殺しました―自主出頭してきた梶警部(寺尾聡)の取調べにあたることになった志木(柴田恭平)は、その自供には、啓子の死後二日間の空白があることに気づく。人望の厚い梶警部が、七年前に一人息子を急性骨髄性白血病で亡くし、またここ数年は妻(原田美枝子)のアルツハイマーの看病で苦労をしていたことは分かった。が、なぜ空白の二日間なのか。しかし警察の威信ばかりを気にする幹部は、空白の二日間にこだわることが警察のマイナスになるとわかると、志木を担当からはずすのだった。
一方明らかに嘘の供述書を渡された検事(伊原剛志)はそれを指摘するが、以前特捜から移動になった経歴や検事局と警察の駆け引きなどもあり、動きが取れない。
スクープを探している新聞社支局雇用の記者(鶴田真由)は偶然「空白の二日間」の存在を知り、記事にしようと動き出す。
それぞれが梶の足取りをそれぞれの思いとともに追う中で、真実が明らかになる・・。
この映画の原作は、しっかりとしたミステリー仕立てだと聞いている。しかし、この映画化のほうは、ミステリーの部分はばっさりと切り取られた、人間ドラマだ。感動ドラマ、と本当は呼ぶべきなのかもしれない。が、しかし、そのラストへとつながる感動部分よりも、そこにいたるまでの登場人物たちの描き方が、緻密で、うまい。
連続少女暴行犯を追うことに執念を燃やしていた刑事志木は、「犯罪を追う」ことが何を守るためであるのかを、知る。
出世とプライドと検事局の板ばさみになっているエリートは、自分とは別の生き方があることを、学ぶ。
不倫とスクープのために人間らしさを忘れていた報道記者は、報道のあるべき道を、見出す。
名声を求めようと弁護をかってでた弁護士は、本来の自分を、家族を思い出す。
実生活におしつぶされようとしていた若き判事は、そこにも幸せがあることが、見えるようになる。
そして、警察幹部は体面を守るためにやっきとなり、検事局も保身のために裏取引を飲み、裁判所は黙認を決め込む。
この映画では、梶という人物は、最後までなにかなぞのままだ。周りの者たちが梶の「真実」を探り、それを探り当てることで、何かを学んでいく。その真実が暴かれた後でも、梶は口を開かない。梶はある意味、象徴的な存在なのだろう。
行政と司法と立法が、組織となって動くその下で、それぞれの欲に左右されながら生きる小さき普通の人々がいる。彼らが梶を通して何を学ぶのか。梶本人の行動による感動よりも、その周りの者たちの思いと行動が、観客の胸に迫る。
「われわれにとって何が大切なのか」「われわれは何のために生きているのか」−映画を通して、その「答え」では無く、その「問い」そのものを、われわれが受け止めること。それこそがこの映画が、観客に伝えようとしていることなのであろう。(それをはきちがえる視聴者が、陳腐な感動物、というレッテルを貼るのかもしれない)
裁判所や警察、検事局、報道といった普段その内情を知ることが出来ない上の世界、(または、提供者側、回す側、とでも呼ぶべきなのだろうか)の関係も分かりやすくかつ緻密に描いている点でも、大変出来の良い作品である。また、 配役(この人がこの役?と思っていると、その妙さを上手く利用する、非常に巧みな配役である)も、すっかり父親と同じ眼の輝きをもつようになった寺尾聡をはじめとして、判事役の吉岡秀隆にいたるまで、眼が離せない。
ご家族で、ご夫婦で、そして学校の視聴覚室で。われわれ社会の小さな蟻たちへの問いかけとして、見ていただきたい一品である。
映画として 8/10