レディ・キラーズ

「レディキラーズ」  オリジナルとの差に何かが見えるものの・・・ 


 ミシシッピ川のほとりの一軒家に暮らすブラックのマンソン未亡人は、敬虔なクリスチャンの老婦人。そんな夫人の家に訪れたのは、上品な物腰の初老の白人男性(トム・ハンクス)。音楽仲間との練習場所に地下室をお借りしたい、と丁寧に申し出たこの男の正体は、実は泥棒。ミシシッピ川のカジノ船の金庫を仲間達と狙っていたのだ。早速機材類を運び媚意気揚々の彼らであったが、その計画は、マンソン夫人の存在によって意外な展開を迎えてゆく…。


 この映画は、1957年の、アレック・ギネスピーター・セラーズという芸達者を迎えて撮られたコメディ映画「マダムと泥棒」(The Ladykillers)のリメイクである。実は、コーエン兄弟の作品はもちろん見たことがあるものの、大ファンであるわけではない私には、この映画を、「スタイリッシュな犯罪映画」といいきることも(コーエン兄弟を、テクニック的に優れているとは思うが、それをスタイリッシュという言葉で片付けられるかどうか私は疑問だ)、「コメディータッチの犯罪映画」といいきることも(そもそもコーエン兄弟に一般的な意味でのコメディタッチがあるとは思えない)できない。

 もしもコーエン兄弟についてなにも知らない映画ファンがこれを読んでおられるなら、この映画を借りるときは、「軽快でウィットにとんだスタイリッシュクライムコメディー!」という冠詞をさっぱり捨て去って、「ちょっと変わった不思議なクライム映画」くらいの先入観で見ることをお勧めする。(もちろん、ハンクスの妙演は見ものだ)

そして、だからこそ、私は、このオリジナル版とリメイク版の設定の変化に、なにかしらの意味を見つけたいと、思っているのだ。

 オリジナルを私が見たのは相当遠い昔だが、かわいらしくちっこいながらもキッツイ「白人」のおばあさんと、アレック・ギネスら個性派の、ブラックコメディとの印象を持っている。それに対して、今回のリメイクでは、典型的な黒人のおばちゃん、「ビッグママ」のマンソン夫人という設定だ。

 アメリカ映画のステレオタイプ的な黒人女性は、「風とともに去りぬ」(黒人へ差別的であるとして放映が控えられていると聞く)に出てくるスカーレットのおつきの乳母といえば、わかりやすいだろう。大柄で、黒く、大声で、たくましく、あまり女をかんじさせない。たとえばウーピー・ゴールドバーグ。彼女は小柄だけれど、やはりこの系譜にのっとって映画で使われる傾向がある。ただし、同じような設定の白人女はまるで鬼か悪魔のようであるけれど(「アニー」の施設長など)、このうるさくてたくましい黒人女性には、悪というより、善良なイメージが付きまとう。(こう書いていると、パム・グリアーがいかに脱構築的なキャラクターであったかわかる。ビヨンセなど現代のセクシーな歌姫たちは、彼女と、もちろんティナ・ターナーの功績に感謝をすべきなのかもしれない)このリメイク版「レディキラーズ」では、小柄な白人老婦人の役が、まさにこのステレオタイプそのままの黒人婦人におきかえられているのだ。

(以下、微妙にネタバレをします)

 そのマダムに計画をジャマされる間抜けな泥棒たちの面々は、なまっちろい頭でっかちの白人トム・ハンクスに、軍人風アジア人、口の悪い黒人青年に、身体だけでかいからっぽの白人青年、ヨーロッパ風白人、の5人。善良な黒人マダムに対して、この人種・民族ばらばらの五人の信仰の薄い犯罪人たちが、こころなしか「ファイナル・デスティネーション」すら思い出すような方法で、駆逐され、ミシシッピ川に流されていくのだ。ミシシッピー川といえば、そう、かのマーク・トゥエインの「ハックルベリー・フィンの冒険」でハックと黒人奴隷ジムが自由目指していかだに乗った、あのミシシッピー川である。

 どうにもこうにも、アメリカ臭い。リメイク時に、もちろん、泥棒メンバーを全員白人のエスプリのきいた人物にだって、オリジナルままの白人おばちゃん(いくらだって合いそうな女優はいる!)にだって、できたはずなのである。が、それをあえて変え、合間に黒人霊歌に耳を傾け、神に祈る善良なおばちゃんの姿をこまめに挿入する。そして黒人のおばちゃんは、今日も何事も無かったようにのんびりと、死んだ夫の写真でも見ながら、暖炉の前で座っているのである。

 何事も変わらない、昔のアメリカのままを生きている黒人おばちゃんと、その横でがちゃがちゃとした行いを繰り返し、結局は川に流れていく犯罪者たち、民族たち。映画は繰り返しエドガー・アラン・ポーを朗読し※、アメリカの「昔」を奏でる。

 私には、コーエン兄弟が何を伝えようとしているのかまでは言い切れない。しかし、この設定の変化に、何かしらの意図があり、これがただの「クライムコメディー」としてだけ作られたものでない、思わせぶりな何かがあることは、確信できるのである。

映画として 6/10

※詳しくは覚えていないのだが、ポーの「モルグ街の殺人事件」など、一連の作品を「黒人への隠喩」のようにとらえているものを読んだことがあるように思う。朗読されている箇所まで詳しく解析すれば、この映画の意図はもっと明確になるのかもしれないが、残念ながら私はコーエン映画にそこまでの思い入れが無い。申し訳ない。

追記:いや、案外、オリジナルのイギリスらしいブラックコメディ、に対して、純粋にアメリカらしいものを作ってみたかったのかも、しれない。と、そんな気もしてきた、私である。