僕はラジオ

僕はラジオ」 カーター時代に見る「アメリカの良心」

1976年、アメリカ南部の田舎町。買い物用のカートにガラクタをつめこみ街を徘徊する黒人の青年(キューバ・グッディングJr.)と、そしてそれを遠巻きに見つつ、見えないふりをしている町の人々の姿があった。町の信頼と尊敬を集める、高校の名アメフトコーチ、ジョーンズ(エド・ハリス)は、その黒人青年と生徒の些細なトラブルから、彼と交流を持つようになる。もらいもののラジオを後生大事に離さない彼はいつしか「ラジオ」と呼ばれるうになり・・・


1996年、アメリカ最大のスポーツ専門誌“スポーツ・イラストレイテッド”に掲載され、たちまち全米中の話題となった実話の映画化である。
 知的障害を持つ黒人青年を演じるキューバ・グッディングJr.は、「ザ・エージェント」のアカデミー助演男優賞で証明済みの演技力を、知的な障害があるがゆえに心の美しい「ラジオ」に申し分なく発揮している。また、エド・ハリスも、町の尊敬を集める名コーコチであり、同時に不器用な父であり夫でもあるジョーンズを、そのたたずまいと、はにかんだような微笑で言葉少なながら実に上手く演じている。 その妻を演じる、久々の銀幕登場のデボラ・ウィンガー(すでに伝説と化している!)演じる理知的な妻もまたよい。

 映画では繰り返し、これが「カーター大統領」が民主党の大統領候補であった時代の話であったことが、ラジオのもっている「ラジオ」の放送などから強調される。 これは、その時代感を表すとともに、あるひとつの感慨を抱かせる。

 南部出身のジミー・カーターは、小さな町の出身で、黒人の子供も白人の子供も一緒に遊ぶような、そんな少年時代をすごした。のちにアメリカ大統領にまで上り詰める彼は、だからこそ、「皆さん、人種差別時代はもう終わったのです」と人権外交を行ったのであるが、さまざまな国内外の事件が重なり、「弱いアメリカ」のイメージが浮かび上がる結果となってその任期は一期のみで終わる。そして、このカーターの次に来たのが、あの「強いアメリカ」−共和党レーガン大統領であった。
 現大統領のブッシュは、このレーガンの流れを汲むともいえる共和党の大統領であり、その政策についてはここで言うまでもないであろう。  

 人権政策で知られるカーター時代のアメリカ南部の小さな田舎町で、「知的障害」「黒人」という二重のハンディを背負った青年を、まさにアメリカを体現するスポーツ・アメフトの名物白人コーチが、慈しみ、友情を育んだ。そんな時代の実話が今また取り上げられ、そして映画化される。そこに静かな静かなメッセージがこめられているのではないか・・・そんな感慨を抱いてしまうのは、私だけなのであろうか。

 映画そのものとしては、実話であり、雑誌のみならず全米のマスメディアでとりあげられた話ということもあってか、「ラジオ」とジョーンズの演出は意外にも過剰ではない。感動を盛り上げよう盛り上げようとするタイプの映画があるが、この映画では変わっていくジョーンズへとまどい、反発をしだす町の人々や、いわれのない偏見に苦しみながらも強く優しいラジオの母親、ジョーンズの妻や娘など、周りの人々にもすこしづつ焦点が当てられ、それが現実的な、1970年代のアメリカの田舎町の雰囲気を作り出しているのに成功している。

 この、全般的にさっぱりとした薄い演出が、テレビドラマ風でもあり、同時にだからこそ実話なのだな、とも観客に思わせる。ただ、残念なのは、最初はアメフトのメンバーとトラブルがあった「ラジオ」が、いつのまにかメンバーと馴染んでいる点だ。後半に問題生徒との一件位はあるのだが、他の生徒と徐々に友情を育むようなシーンが全く見られない。ジョーンズとの交流がメインの物語ではあるにしろ、この点ではあまりにも削りすぎで、不自然なのは残念なところである。
 が、ラストで現在の「ラジオ」と、ジョーンズコーチ本人の友情(それは、実は眼に見えるものであるのかもしれない)いっぱいの笑顔を見ることが出来るので、すべては帳消しになるのかもしれない。

ブッシュ政権の現代に作られた映画に、人権大統領カーターの時代の「「アメリカの良心」を見る。静かなメッセージを感じさせるヒューマンドラマであった。

映画として 7/10
実話として 10/10

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