バッド・エデュケーション

 (批評ですが、ストーリーをネタバレさせているわけではありません)

 ペドロ・アルモドバル監督の、最新作。「半自叙伝」と呼ばれるこの作品の主役は、映画監督エンリケと、その少年時代の親友イグナシオの二人。熱く悲しい愛の物語である。

1980年、マドリッド。若くして映画監督として成功したエンリケ(フェレ・マルチネス)の元に、少年時代教会学校で親友だったイグナシオ(ガエル・ガルシア・ベルナル)が突然現れる。俳優をしているという彼は、自分で書いたというシナリオを持っていた。
 あまりにも変わった旧友に疑いを持ちながらも、彼のシナリオに引き込まれ、映画化を決めるエンリケ
 シナリオは、少年時代の二人と、その仲を引き裂いた神父の物語から始まっていた・・・。

 この映画は「トーク・トゥー・ハー」を中心に、そしてその左右にひとつづつ、「オール・アバウト・マイマザー」と「バッド・エデュケーション」として位置するのではないか、というのが見た直後の私の感想である。

性転換者も含めた「女性たち」の、哀しくも強く美しい姿を描いた「オール・アバウト・マイマザー」、そして男性と女性のその隔たりを「昏睡」のシンボリズムで描いて見せた「トーク・トゥー・ハー」(批評はこちら)、そして、今回の「バッド・エデュケーション」という天秤である。

 「バッド・エデュケーション」の男たちは、美しくも、醜い。
 厳密に言えば、映画の中で製作中とされている「映画」の中でのオカマたちや少年たち、主人公の二人は、あくまでも美しい。
 ガエル演じるオカマ・サハラはこの上なく美しく、再会するエンリケとのセックスも最高にロマンチックだ。少年たち二人の思い出はレトロな甘美さにあふれ、イグナシオを愛するが故陵辱するにいたるマノロ神父と、イグナシオ少年との「ゆがんだ愛」(もちろんそれはイグナシオにとっては陵辱以外の何者でもない)は、「そのもの」のシーンは何も無いまま、イメージだけで映される。それが、「映画の中の映画」におけるオカマたちであり、少年たちであり、男たちの愛である。

 が、一方、「映画の中の現実」の男たちはどうだろう。プールで泳ぐ再会したイグナシオをじっとりとした目つきで見つめるエンリケの表情はセクシーであると同時に神経を逆なでし、男色にふけるベレングエル氏(=マノロ神父の退職後の名前)は疲れた老人で、エンリケに「主役をもらうため」に身体を開く”イグナシオ”の表情はベッドに押し付けられてゆがんでいる。オカマとなった現実のイグナシオは薬中毒で、作り物の乳房はいかにも作り物然としていて美しさのかけらも無い。「映画の中の現実」の男たちは、魅力的ではあるが、何か、醜く、その愛の行為は時に眼を背けたくなる。

 この映画が監督の「半自叙伝」であるとすれば、それはアルモドバルの現実と映画の狭間がこの映画に現れているとも受け取れるだろう。少年時代の美しい思い出の果てにたどり着いた彼の現在の人生の中で、男たちの世界は、名声への欲望や、肉体的な欲望にまみれ、時に男色も、オカマたちも、彼の映画の中とは違う醜い(=リアル)ものであるのかもしれない。

 この映画の主要登場人物で、おそらく最もマトモな人間として描かれているのは「享楽主義者」(少年時代の彼の言葉)エンリケである。「氷原を愛するものに会うためにバイクで走り抜けている間に死んでしまった男の話」に感動する彼は、肉欲におぼれるものではあるけれど、何が正しく、なにがそうでないかは理解している。 彼は自ら選んだ「同性愛者」として描かれる。(それは「飢えたワニ」とも形容される、肉欲の塊ではあるけれども)

 一方少年時代の性的虐待でオカマになったイグナシオは、いわば追い詰められた結果の同性愛者であり、なぞの人物”イグナシオ”は役や金ほしさに嫌悪を抱きながら同性愛者の相手をするだけのことである。またベレングエル氏は、元神父で、妻子がおりながら実際は同性愛者である、という設定だ。自らの「性」を欺く、または欺かざるを得ない彼らの同性愛は、醜く、時に滑稽ですらある。

 「バッド・エデュケーション」とは、スペイン語タイトルそのままの英語であるが、この「男たち」の社会は、ひたすらに悪循環で、ひたすらに「悪しき教育」ゆえであるともいえる。それは、少年だけを完全に隔離し教育を施すキリスト教の敬虔な教育だけを指すのではない。「名声を求めること」「体裁を繕うこと」「教義を守ること」そして、それを妨げるものに、「手をかけること」・・・それは全て、男たちの社会で行われたことである。「オール・アバウト・マイマザー」で母親たちが自分の全てを投げ出し子供のために、そして友人のために尽くし、何かを越えていったのに対して、この男たちの自堕落さはどうだろう。この、男たちの情けなさは、どうだろう。

 映画のラストで登場人物たちのむなしい末路が簡単に説明され、そして、エンリケは、こう、語られる。

「情熱を持って、映画を撮り続けた・・・」

そのときの「情熱」=pasión(passion)という言葉が、大写しになることを見逃してはならない。pasiónはラテン語の「(肉体的な)苦しみ」が、「キリストの受難と死」をあらわすようになり、「(自分ではどうしようもならない)心理的な状態(=情熱)」、「言い尽くせないほどの怒り」そして最後には「強い愛、転じて肉欲」とまで意味を広げた言葉である。(その生い立ちの順序は違うかもしれないが、英語でもスペイン語でも、同じ意味を持つ)

 その一言が、この映画の全てを物語る。本当は、「パッション」と名づけられる映画であったのかも、知れない。


映画として 8.5/10
三部作としてみれば 10/10
ガエル 10/10
ノロ神父 100/10
フェレの目つき 100/10