白いカラス

白いカラス」   表現者からの控えめな意見

原作は、アメリカの誇る文豪フィリップ・ロス原作で、フォークナー賞も受賞している[Human Stain] (映画の原題も同じである)である。


 1998年、アメリカ・ニューイングランド。大学の学部長コールマン・シルク(アンソニー・ホプキンス)は、新学期以来一度も自分の授業に顔を出さない見たこともない生徒を「彼らはそもそも存在するのかね?幽霊(spooks 俗語では黒人の蔑称)なんじゃないのか?」と皮肉ったことが、PC (Political Correctness 政治的・道徳的正確さ)に反するとして糾弾を受け、辞職。その顛末を聞いた妻は憤慨から心臓麻痺で死に、孤独な身の上となる。
 スランプ中の作家ザッカーマン(ゲイリー・シニーズ)と知り合いになった彼は男の友情を深めて行く一方、車の故障から乗せた郵便局のアルバイト女性フォーニア(ニコール・キッドマン)と知り合い、彼女を愛するようになる。しかし彼女にはつきまとう前夫(エド・ハリス)や、隠された過去が、そしてコールマン本人にも、誰にもいえない秘密があった・・・


 映画としてのつくりは、なぜそのシーンにそれだけの時間を割かねばならないのか?や、なぜそんな演技をさせねばならないのか?といった多少の疑問を抱かせる点もある。エピソードとエピソードの連結も弱く、特にフォーニアの行動は、見て少し考えただけでは理解できない点が多いなど、映画としての弱点はここそこに見える。
 ホプキンスとキッドマンの演技は、すばらしいのだが、キッドマンの「なりきった」演技は、賛否両論の分かれるところかもしれない。

 しかし、この映画にはしっかりとした原作があるのだ。なぜこの映画がいい映画であるのかといえば、それは原作がすばらしいからに他ならない。それが弱いエピソード連結や分かりづらさといったものの全てを凌駕してしまうのである。

 原題であるHuman Stainとは、人間のしみ、すなわち人間に一度ついたら消えない傷であり、過去のことである。邦題の白いカラス(センスはないが、言いえて妙ではある)とは、なぜ「白い」なのかはレビューであるから伏せておくにしろ、フォーニアが時節語りかけに行くもとは野生で今は人に飼われているカラスからくる。漆黒であるカラスには、しみのつくことがなく、小さな囲いの中で暮らすそのからすは、汚れることがない。傷を受けることがない。
 事故で二人の子供を焼死させた罪を、自分を大切に扱わないことで償おうとしているフォーニアと、ある理由で過去に生まれ育った場所と家族を捨てたコールマンは、もともとアメリカの両端に住む出会うことのない二人であったが、肉欲から関係をはじめ、お互いの傷をすりよせることで徐々にお互いの傷を癒していく。

 この作品で描かれるのは、肉欲であり、老人の性であり、愛であり、人種問題であり、DVであり、犯罪であり、社会的な格差である。現代アメリカに巣食う全ての問題が、このストーリーの中凝縮されているのだ。そしてその全てが1998年という年−マスコミはクリントン大統領の「不適切な関係」に終始し、一方PCについて騒ぎ始めた頃であった−を舞台としているのである。

以前、親交のあった絵本作家からこんな話を聞いたことがある。

− 絵本原稿に「魚屋さん」と書いたら、出版社から、PCにひっかかり問題となる可能性があるので、「鮮魚店」にするよう言われたよ。子供たちにも、僕にも、「魚屋さん」は、親しみを込めた呼び方でしかないのにね。−

その後彼がどうしたのかは残念ながら知らない。しかし私は、映画にも登場し、他のロス作品にも登場する作家、ザッカーマンに、ロスと、その絵本作家と、そしてたくさんの表現者たちを見たように思う。

ロスは言う。

クリントンのスキャンダルにあけくれ、それに湧き上がる人々たち。そして同じ人々が、PCについて常に目を光らせ、つねに語意的政治的「正しさ」を追求しようとする。けれど、アメリカには、そしておそらく世界には、クリントンのスキャンダルや、PCなどよりも、これだけ多くの語るべき問題がある。私(=ザッカーマン)は、書きたくても書けない。PCという検閲に近い了解が、私の書こうとしているこの本当に大切な、人間の問題を、ありのままに、そのムードそのままに書かせてはくれないからだ・・・

その彼の心のうちを、そして「表現者」全ての心のうちを、ロスの作家としての類まれな手腕でひとつの物語にした。私はそれが、[Human Stain] ではないかと、思っている。

映画として 7/10
原作も含めた作品として 10/10

追記: stainは、「染まる」と言う意味もある。PCによって一様の色に「染まってしまう」Human、の意味もあるのではないかと思っている。