レディ・キラーズ

「レディキラーズ」  オリジナルとの差に何かが見えるものの・・・ 


 ミシシッピ川のほとりの一軒家に暮らすブラックのマンソン未亡人は、敬虔なクリスチャンの老婦人。そんな夫人の家に訪れたのは、上品な物腰の初老の白人男性(トム・ハンクス)。音楽仲間との練習場所に地下室をお借りしたい、と丁寧に申し出たこの男の正体は、実は泥棒。ミシシッピ川のカジノ船の金庫を仲間達と狙っていたのだ。早速機材類を運び媚意気揚々の彼らであったが、その計画は、マンソン夫人の存在によって意外な展開を迎えてゆく…。


 この映画は、1957年の、アレック・ギネスピーター・セラーズという芸達者を迎えて撮られたコメディ映画「マダムと泥棒」(The Ladykillers)のリメイクである。実は、コーエン兄弟の作品はもちろん見たことがあるものの、大ファンであるわけではない私には、この映画を、「スタイリッシュな犯罪映画」といいきることも(コーエン兄弟を、テクニック的に優れているとは思うが、それをスタイリッシュという言葉で片付けられるかどうか私は疑問だ)、「コメディータッチの犯罪映画」といいきることも(そもそもコーエン兄弟に一般的な意味でのコメディタッチがあるとは思えない)できない。

 もしもコーエン兄弟についてなにも知らない映画ファンがこれを読んでおられるなら、この映画を借りるときは、「軽快でウィットにとんだスタイリッシュクライムコメディー!」という冠詞をさっぱり捨て去って、「ちょっと変わった不思議なクライム映画」くらいの先入観で見ることをお勧めする。(もちろん、ハンクスの妙演は見ものだ)

そして、だからこそ、私は、このオリジナル版とリメイク版の設定の変化に、なにかしらの意味を見つけたいと、思っているのだ。

 オリジナルを私が見たのは相当遠い昔だが、かわいらしくちっこいながらもキッツイ「白人」のおばあさんと、アレック・ギネスら個性派の、ブラックコメディとの印象を持っている。それに対して、今回のリメイクでは、典型的な黒人のおばちゃん、「ビッグママ」のマンソン夫人という設定だ。

 アメリカ映画のステレオタイプ的な黒人女性は、「風とともに去りぬ」(黒人へ差別的であるとして放映が控えられていると聞く)に出てくるスカーレットのおつきの乳母といえば、わかりやすいだろう。大柄で、黒く、大声で、たくましく、あまり女をかんじさせない。たとえばウーピー・ゴールドバーグ。彼女は小柄だけれど、やはりこの系譜にのっとって映画で使われる傾向がある。ただし、同じような設定の白人女はまるで鬼か悪魔のようであるけれど(「アニー」の施設長など)、このうるさくてたくましい黒人女性には、悪というより、善良なイメージが付きまとう。(こう書いていると、パム・グリアーがいかに脱構築的なキャラクターであったかわかる。ビヨンセなど現代のセクシーな歌姫たちは、彼女と、もちろんティナ・ターナーの功績に感謝をすべきなのかもしれない)このリメイク版「レディキラーズ」では、小柄な白人老婦人の役が、まさにこのステレオタイプそのままの黒人婦人におきかえられているのだ。

(以下、微妙にネタバレをします)

 そのマダムに計画をジャマされる間抜けな泥棒たちの面々は、なまっちろい頭でっかちの白人トム・ハンクスに、軍人風アジア人、口の悪い黒人青年に、身体だけでかいからっぽの白人青年、ヨーロッパ風白人、の5人。善良な黒人マダムに対して、この人種・民族ばらばらの五人の信仰の薄い犯罪人たちが、こころなしか「ファイナル・デスティネーション」すら思い出すような方法で、駆逐され、ミシシッピ川に流されていくのだ。ミシシッピー川といえば、そう、かのマーク・トゥエインの「ハックルベリー・フィンの冒険」でハックと黒人奴隷ジムが自由目指していかだに乗った、あのミシシッピー川である。

 どうにもこうにも、アメリカ臭い。リメイク時に、もちろん、泥棒メンバーを全員白人のエスプリのきいた人物にだって、オリジナルままの白人おばちゃん(いくらだって合いそうな女優はいる!)にだって、できたはずなのである。が、それをあえて変え、合間に黒人霊歌に耳を傾け、神に祈る善良なおばちゃんの姿をこまめに挿入する。そして黒人のおばちゃんは、今日も何事も無かったようにのんびりと、死んだ夫の写真でも見ながら、暖炉の前で座っているのである。

 何事も変わらない、昔のアメリカのままを生きている黒人おばちゃんと、その横でがちゃがちゃとした行いを繰り返し、結局は川に流れていく犯罪者たち、民族たち。映画は繰り返しエドガー・アラン・ポーを朗読し※、アメリカの「昔」を奏でる。

 私には、コーエン兄弟が何を伝えようとしているのかまでは言い切れない。しかし、この設定の変化に、何かしらの意図があり、これがただの「クライムコメディー」としてだけ作られたものでない、思わせぶりな何かがあることは、確信できるのである。

映画として 6/10

※詳しくは覚えていないのだが、ポーの「モルグ街の殺人事件」など、一連の作品を「黒人への隠喩」のようにとらえているものを読んだことがあるように思う。朗読されている箇所まで詳しく解析すれば、この映画の意図はもっと明確になるのかもしれないが、残念ながら私はコーエン映画にそこまでの思い入れが無い。申し訳ない。

追記:いや、案外、オリジナルのイギリスらしいブラックコメディ、に対して、純粋にアメリカらしいものを作ってみたかったのかも、しれない。と、そんな気もしてきた、私である。

半落ち

半落ち」  問いかけとしてみる、日本映画  (ネタバレ無し)

半落ち」とは、容疑者が容疑を一部だけ自供し、完全には明かしていない状況をさす警察用語。
 私、梶聡一郎は、3日前、妻の啓子を、自宅で首を絞めて、殺しました―自主出頭してきた梶警部(寺尾聡)の取調べにあたることになった志木(柴田恭平)は、その自供には、啓子の死後二日間の空白があることに気づく。人望の厚い梶警部が、七年前に一人息子を急性骨髄性白血病で亡くし、またここ数年は妻(原田美枝子)のアルツハイマーの看病で苦労をしていたことは分かった。が、なぜ空白の二日間なのか。しかし警察の威信ばかりを気にする幹部は、空白の二日間にこだわることが警察のマイナスになるとわかると、志木を担当からはずすのだった。
 一方明らかに嘘の供述書を渡された検事(伊原剛志)はそれを指摘するが、以前特捜から移動になった経歴や検事局と警察の駆け引きなどもあり、動きが取れない。
 スクープを探している新聞社支局雇用の記者(鶴田真由)は偶然「空白の二日間」の存在を知り、記事にしようと動き出す。
それぞれが梶の足取りをそれぞれの思いとともに追う中で、真実が明らかになる・・。

 この映画の原作は、しっかりとしたミステリー仕立てだと聞いている。しかし、この映画化のほうは、ミステリーの部分はばっさりと切り取られた、人間ドラマだ。感動ドラマ、と本当は呼ぶべきなのかもしれない。が、しかし、そのラストへとつながる感動部分よりも、そこにいたるまでの登場人物たちの描き方が、緻密で、うまい。
  
 連続少女暴行犯を追うことに執念を燃やしていた刑事志木は、「犯罪を追う」ことが何を守るためであるのかを、知る。
 出世とプライドと検事局の板ばさみになっているエリートは、自分とは別の生き方があることを、学ぶ。
 不倫とスクープのために人間らしさを忘れていた報道記者は、報道のあるべき道を、見出す。
 名声を求めようと弁護をかってでた弁護士は、本来の自分を、家族を思い出す。
 実生活におしつぶされようとしていた若き判事は、そこにも幸せがあることが、見えるようになる。

そして、警察幹部は体面を守るためにやっきとなり、検事局も保身のために裏取引を飲み、裁判所は黙認を決め込む。

この映画では、梶という人物は、最後までなにかなぞのままだ。周りの者たちが梶の「真実」を探り、それを探り当てることで、何かを学んでいく。その真実が暴かれた後でも、梶は口を開かない。梶はある意味、象徴的な存在なのだろう。

 行政と司法と立法が、組織となって動くその下で、それぞれの欲に左右されながら生きる小さき普通の人々がいる。彼らが梶を通して何を学ぶのか。梶本人の行動による感動よりも、その周りの者たちの思いと行動が、観客の胸に迫る。
 「われわれにとって何が大切なのか」「われわれは何のために生きているのか」−映画を通して、その「答え」では無く、その「問い」そのものを、われわれが受け止めること。それこそがこの映画が、観客に伝えようとしていることなのであろう。(それをはきちがえる視聴者が、陳腐な感動物、というレッテルを貼るのかもしれない)

 裁判所や警察、検事局、報道といった普段その内情を知ることが出来ない上の世界、(または、提供者側、回す側、とでも呼ぶべきなのだろうか)の関係も分かりやすくかつ緻密に描いている点でも、大変出来の良い作品である。また、 配役(この人がこの役?と思っていると、その妙さを上手く利用する、非常に巧みな配役である)も、すっかり父親と同じ眼の輝きをもつようになった寺尾聡をはじめとして、判事役の吉岡秀隆にいたるまで、眼が離せない。

 ご家族で、ご夫婦で、そして学校の視聴覚室で。われわれ社会の小さな蟻たちへの問いかけとして、見ていただきたい一品である。

映画として 8/10


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僕はラジオ

僕はラジオ」 カーター時代に見る「アメリカの良心」

1976年、アメリカ南部の田舎町。買い物用のカートにガラクタをつめこみ街を徘徊する黒人の青年(キューバ・グッディングJr.)と、そしてそれを遠巻きに見つつ、見えないふりをしている町の人々の姿があった。町の信頼と尊敬を集める、高校の名アメフトコーチ、ジョーンズ(エド・ハリス)は、その黒人青年と生徒の些細なトラブルから、彼と交流を持つようになる。もらいもののラジオを後生大事に離さない彼はいつしか「ラジオ」と呼ばれるうになり・・・


1996年、アメリカ最大のスポーツ専門誌“スポーツ・イラストレイテッド”に掲載され、たちまち全米中の話題となった実話の映画化である。
 知的障害を持つ黒人青年を演じるキューバ・グッディングJr.は、「ザ・エージェント」のアカデミー助演男優賞で証明済みの演技力を、知的な障害があるがゆえに心の美しい「ラジオ」に申し分なく発揮している。また、エド・ハリスも、町の尊敬を集める名コーコチであり、同時に不器用な父であり夫でもあるジョーンズを、そのたたずまいと、はにかんだような微笑で言葉少なながら実に上手く演じている。 その妻を演じる、久々の銀幕登場のデボラ・ウィンガー(すでに伝説と化している!)演じる理知的な妻もまたよい。

 映画では繰り返し、これが「カーター大統領」が民主党の大統領候補であった時代の話であったことが、ラジオのもっている「ラジオ」の放送などから強調される。 これは、その時代感を表すとともに、あるひとつの感慨を抱かせる。

 南部出身のジミー・カーターは、小さな町の出身で、黒人の子供も白人の子供も一緒に遊ぶような、そんな少年時代をすごした。のちにアメリカ大統領にまで上り詰める彼は、だからこそ、「皆さん、人種差別時代はもう終わったのです」と人権外交を行ったのであるが、さまざまな国内外の事件が重なり、「弱いアメリカ」のイメージが浮かび上がる結果となってその任期は一期のみで終わる。そして、このカーターの次に来たのが、あの「強いアメリカ」−共和党レーガン大統領であった。
 現大統領のブッシュは、このレーガンの流れを汲むともいえる共和党の大統領であり、その政策についてはここで言うまでもないであろう。  

 人権政策で知られるカーター時代のアメリカ南部の小さな田舎町で、「知的障害」「黒人」という二重のハンディを背負った青年を、まさにアメリカを体現するスポーツ・アメフトの名物白人コーチが、慈しみ、友情を育んだ。そんな時代の実話が今また取り上げられ、そして映画化される。そこに静かな静かなメッセージがこめられているのではないか・・・そんな感慨を抱いてしまうのは、私だけなのであろうか。

 映画そのものとしては、実話であり、雑誌のみならず全米のマスメディアでとりあげられた話ということもあってか、「ラジオ」とジョーンズの演出は意外にも過剰ではない。感動を盛り上げよう盛り上げようとするタイプの映画があるが、この映画では変わっていくジョーンズへとまどい、反発をしだす町の人々や、いわれのない偏見に苦しみながらも強く優しいラジオの母親、ジョーンズの妻や娘など、周りの人々にもすこしづつ焦点が当てられ、それが現実的な、1970年代のアメリカの田舎町の雰囲気を作り出しているのに成功している。

 この、全般的にさっぱりとした薄い演出が、テレビドラマ風でもあり、同時にだからこそ実話なのだな、とも観客に思わせる。ただ、残念なのは、最初はアメフトのメンバーとトラブルがあった「ラジオ」が、いつのまにかメンバーと馴染んでいる点だ。後半に問題生徒との一件位はあるのだが、他の生徒と徐々に友情を育むようなシーンが全く見られない。ジョーンズとの交流がメインの物語ではあるにしろ、この点ではあまりにも削りすぎで、不自然なのは残念なところである。
 が、ラストで現在の「ラジオ」と、ジョーンズコーチ本人の友情(それは、実は眼に見えるものであるのかもしれない)いっぱいの笑顔を見ることが出来るので、すべては帳消しになるのかもしれない。

ブッシュ政権の現代に作られた映画に、人権大統領カーターの時代の「「アメリカの良心」を見る。静かなメッセージを感じさせるヒューマンドラマであった。

映画として 7/10
実話として 10/10

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「誰も知らない」

「誰も知らない」    輝きの裏に隠されたもの

幻の光」の是枝裕和監督が、1988年に起きた巣鴨子供置き去り事件を題材に撮りカンヌでパルムドール・ノミネート、主役の柳楽優弥少年が独特の存在感で史上最年少のカンヌ主演男優賞を受賞した、かの話題作である。


 東京。中年の明るい母親(YOU)と、小学校六年生という息子(柳楽優弥)が、引越しの挨拶をしている。「夫は海外で・・・この子、明は学校で勉強も出来て。二人暮しなんです」というその言葉とは裏腹に、2LDKの部屋には、明のほかに、京子、茂、ゆきという幼い兄弟がいた。誰も、学校にはいっていない。また、明以外は、外出すら禁じられていた。
 それでも子供たちは母親を愛し、母親も彼女なりに子供たちを愛したが、好きな男が出来た母親は、いくばくかの金と「皆を頼むね」という簡単なメモだけを残し、子供たちを置き去りに姿を消す。子供たちだけでの生活が始まる・・・。



 子供たちに演技を強要するのではなく、四季を通じて子供たちの生の姿を撮りつづけることで、是枝監督は、四人の幼い兄弟としての彼らを「撮り出し」て見せた。蛍光灯の光の中で、朝日の、夕日の中で、子供たちはキラキラと澄んで輝く。「物より思い出」という、最近まで放送されていたニッサンのCMをご存知だろうか。色彩の美しい自然、子供たちの笑顔。あれを撮ったのが、是枝監督である。この映画では少し砂埃のかかったような、薄い色合いの映像となっているが、彼の子供へのまなざしは変わらない。子供は光り輝くもの。子供は自然であるべきもの。

 モデルとされた、巣鴨置き去り事件が、置き去られ後に、長男の少年とその友達の手で三女の妹(14歳の長男、7歳3歳2歳の妹の四人兄弟)が折檻死、死体を押入れに遺棄、といった陰惨極まりないものであったから、「誰も知らない」での美しい子供たちの笑顔へ対して、「きれいごとばかり」「ありえない」「お涙頂戴」というような批判が多少なりとも見受けられたのは、「事実を映画化したもの」とこの映画を捉えたからなのだろう。しかし、是枝監督がこの映画を本当に見てほしいと感じているのは、親に置き去りにされた子供たちが必死に生きようとする姿を「お涙頂戴」といい、その笑顔を「ありえない」という、その大人たちなのだ。  

 映画の冒頭の引越しの場面では、「子供が多いとうるさいし・・」といったセリフが大家から口に出され、明が助けを求める大人たちも、「子供たちだけで暮らしている」と聞いても本当には手を差し伸べないし、毎日のように通っているコンビニの店長は、あきらかに姿が異様になっていく明に対しても「遠足〜?」と営業用の言葉を投げかける。ほんの数人を除いて、大人は子供たちを、本当には見ていない、いや、見ようともしていないのだ。そして、彼らにとって、必要であるとすら、思ってもいない。

 不登校の中での心の平安を明たちと過ごすことで癒すことになる女子学生は、明へのお金を作るためにと、携帯で知り合ったサラリーマンとカラオケに行く。中年の男はカラオケ店で携帯に目をやりながら手を振り、去っていく。彼女をある意味必要としているそんな男ですら、子供を「見て」はいない。明の家でファミコンをするようになる少年たちにも、「母親が、塾が」という言葉は聞こえても、庇護者たる親の姿は見えてこない。
 母親に見捨てられ、社会にも透明な明たちのみならず、日常を生きているはずの彼らフツウの現代っ子にさえ、大人は目を向けてはいないのだ。

 そして、明たちが屈託なく公園で遊び、ベランダで土にまみれて緑を育てながら見せるキラキラした笑顔の一方で、ファミコンに興じ、万引きでスリルを味わい、携帯メールに没頭する「現代っ子」たちの笑顔は、時に暴力的で、むなしい。

 こう書いていると、「自然に帰れ」というルソーの言葉が思い出される。「物より思い出」・・是枝監督は、現代文明(映画内で、それはファミコンや携帯のみならず、大きなビルや、電車、飛行機といったものでも効果的に強調される)の中ですさんでいく子供たちと、電気を止められ、ガスをとめられ、文明から置き去りにされ「自然に帰る」ことを余儀なくされた子供たちの輝きを対比して描く。

 しかし、悲劇は起こるのだ。大人の手から完全に離れた子供たちのことを「誰も知らない」というのは、すなわち、彼らがまた「誰も知らない」ことを意味する。誰も見ていない、誰も彼らを知らない、彼らも誰も知らない、彼らは何も知らない。助けも、救いの手もない。

 子供たちの輝きを守るために、大人は何をするべきなのだろう。公園のジャングルジムで夕日を浴びながら、風に眼をつぶる子供たちの笑顔を守るために、大人は何が出来るのだろう。本当の「子供たち」を取り戻すために、大人は何をすべきなのだろう。

この映画の本質を象徴するような、印象的な場面がある。

 空を飛ぶジャンボジェット機を、大人への階段を上り始めた明が、まぶしそうに見上げ、その袖を弟の茂が引っ張る。茂の澄んだ、そして不安そうな、瞳。

子供と、大人と、空と、土と、雑踏と、ジェット機と。

子供たちのまぶしいまでの笑顔と、映像の美しさの裏に、優しさと、そして痛烈な現代社会批判までをも隠した是枝監督に、惜しみない拍手を送りたい。

映画として10/10
柳楽優弥くん 10/10

スウィングガールズ

スウィングガールズ」 谷啓までおいしい青春コメディー

「ウォーター・ボーイズ」の矢口史靖監督による、女子高校生ジャズバンド青春映画の登場である。

東北の片田舎の高校。補習組のぐーたら落ちこぼれ女子たちは、野球部の応援ブラスバンド用の弁当を届けるべく電車で出発したが、なにぶんいいかげんないまどきの女子高校生の集まり。異様に時間がかかったせいで、それを食べたブラスバンド部員が皆食中毒になるという事件を引き起こしてしまう。
 一人難を逃れた男子部員の中村は、お前たちのせいだ、と次の試合までに即席ブラスバンドを作り、応援演奏をしろとつめよる。補習がさぼれるとばかりいい加減な気持ちで参加を決めた補習組女子ときわめて真剣な中村で、人数的に足りるビッグバンドを結成することになるが・・・


 こう書くと、ああ、それでちょろちょろっと苦労して、最後には嘘みたいに短期間で上手になって終わりね、と簡単に想像されるかもしれないが、この作品はその期待をいい意味で裏切ってくれる。
 いろいろな伏せんが張り巡らされる中で、、補習を逃げられた(?)数学教師竹中直人ももちろん絡んで、イマドキの女子高校生たち(その冒頭の弁当運搬のシーンはあまりのダメ人間ぶりで、見ていて腹が立つほどである)が、紆余曲折しながらも、「自分の力で吹いて」音を出さねばならない管楽器を17人一丸となってプレイするようになるまでを、この映画は「お決まりであってお決まりでない展開」でユーモアたっぷりに見せてくれるのである。単純なようで案外盛りだくさん、それがこの映画のおいしいところなのだ。(ここが、ダメ部員が成長する様を描く点でテーマがかぶる、「ロボコン」とは違う点だろう)

 また、「ウォーターボーイズ」よりも、その笑いのセンスに磨きがかかっているのも見逃せない。私がここ数年に見た映画で最も笑ったと断言できる「イノシシ」がからむシーンは、あきらかに安い大道具に、最新の画像技術という組み合わせの、あ、っと思わせる手法と、バックグラウンドミュージックとの抜群な相乗効果でまさにスタンディングオベーション(スタンディング大笑いでも良いが)に値する。 
 この映画のコメディセンスは、とにかく一言で言って、「センスが良い」のだ。ジャズのリズムにのって歩く生徒たちの上でたたかれる布団に、「そんなわけないだろ!」と思わず突っ込むほどの転げ落ち方の高校生・・・そういった小さなユーモアがストーリーの中に組み込まれるテンポの巧妙さ、軽快さは、今までの日本映画にはあまり見出せないものだ。(頭に浮かぶとしたら、岡本喜八監督の「大誘拐」くらいのものか)
 以前、「ゲロッパ!」で、井筒監督がハリウッド娯楽を(無意識に?)やろうとして失敗した、と書いたことがあるが、「スィングガールズ」は、むしろ、ハリウッド娯楽とともに育ったからこそ無意識にテンポの良さを身に着けた、という表現が当てはまるかと思う。それは、最近のジャパニーズポップスの若手たちが、明らかにかつての「歌謡界」よりも(メロウさは薄くなったが)リズム感で優れていることと同じであるのかもしれない。

 欲を言えば、多少映画としての「感動」が薄いことだろうか。もう少し笑いの前フリ部分を減らし、登場人物たちの内面の葛藤を深く織り込めば、最高に笑えて、最高に感動できて、最高にスィングできる映画になったのに、とだけ辛口で評しておこう。

ちなみに、モデルとなったのは兵庫県こちらの高校。部員が少ないことからビッグバンドに転向、成功を収めている有名ジャズ高校バンドである。また、 「スウィングガールズ」のオフィサルサイトには、映画の登場人物たちのキャラクター紹介が映画を超えて事細かに書き記されているので、すでにご覧の方は必ずチェックのほどを。

映画として 8/10
コメディとして 9/10
俳優たちが練習して演奏するまでになったことをたたえて 10/10
谷啓 100/10 (長生きしてください)

シャーク・テイル

シャーク・テイル」  内輪受けのセレブ嗜好映画

かの職人集団 ドリームワークスによるフルCGアニメ。豪華な声優たちのキャスティングで話題を呼んだ作品である。


海底に広がる大都会リーフシティ。ここに暮らすオスカー(ウィル・スミス)は「いつかでなく大物になるんだ」が口癖の、洗鯨場で働く小さな魚。受付嬢のアンジーレニー・ゼルウィガー)は、いい加減なところはあるが心優しいオスカーに夢中だし、社長のサイクス(マーティン・スコセッシ)にとっても、眼の上のたんこぶながらなんとなく憎めない存在だ。
 一方、サメ・マフィアのドン(ロバート・デ・ニーロ)の次男レニー(ジャック・ブラック)は気が優しすぎて殺しも出来ず、兄と父親の悩みの種。そんなある日、オスカーとレニーの人生を一変させる出来事が起きる・・・。


上にあげたキャストの他に、オスカーを誘惑する美魚(びぎょ)にアンジェリーナ・ジョリー、クラゲの片割れにボブ・マーレーの息子ジギー・マーレー、ヨボヨボマフィアにピーター・フォーク、など、声優たちはまさに豪華としか言いようが無い。2004年アメリカ公開時、3週連続でボックスオフィスの首位を守り、1億6000万ドルに迫る興収を記録したというのも、この豪華なキャスティング、それぞれの声優を模した魚たちのアニメーション、 乗りのよい音楽、といったものを大大的に宣伝したプロモーションに惹かれて観客が足を運んだからであろう。
 映画の中では、ウィルスミス魚やスコセッシ魚、デニーロ鮫が海に置き換えられた人間の街を歩き(泳ぎ?)まわり、随所に「ゴッドファーザー」や「グッドフェローズ」といった映画のパロディなどが散りばめられていたりする。
 が、しかし、−だからどうだっていうんだ?と声を上げたくなるのが、この映画である。上にあげた三つ以外には何の魅力も無いのだ。
キャラクターの豪華声優陣とビジュアルの模倣具合はおもしろいが、キャラクターそのものには魅力が無い。上昇志向の強いオスカーは、確かに憎めない奴かもしれないが、いい加減でだらしない嘘つきで、ラストで多少の成長は見せるものの、その過程は極めて短絡的に描かれる。マフィアのドンは息子が「男らしく」ないことを受け入れられないのが、これもきわめて深み無く、受けいるにいたる。合間合間のつじつまがあっていないとか、そういことを言いたいのではない。とにかく、二流テレビアニメ以下の、プロットの薄さなのだ。
 もちろんクスっと笑えるシーンもあるが、パロディ系の笑い大元を知らないと笑えないものばかりともいえる。これは、アメリカ人でも100パーセントというわけにはいかない笑いのはずだ。
 そして何より疑問に思ったのは、いったいどんな客層をターゲットにした映画なのか、ということだ。お魚が楽しいの〜という年代の幼児には良いかもしれないが(しかし、メリハリが少ないし妙に人間臭いのが足を引っ張って、たいていの幼児は匙を投げるはずだ)、もう少し年齢が上の子供には、セリフに微妙なセックスや暴力のニュアンスが多いため、親としてはお勧めできない気分になる。それでは大人が、となると、筋が薄いため、最初は、「へぇ、この魚ウィルにそっくり」で喜べても、徐々に退屈になってくる。
 こう考えていくと、この映画で心底楽しめるのは、二つの人種しかいないのではないかと思えるのだ。
 ひとつは、セレブ礼賛の庶民たち。セレブが声をやっているというだけで、二時間過ごせる方々である。
そしてもうひとつは、作り手側本人たちだ。私はこの映画を見終わった瞬間に、二つの言葉が思い浮かんだ。「後期のおれたちひょうきん族」と、「とんねるずの生でだらだらいかせて」である。娯楽の作り手がビッグになっていき、その名前だけで視聴者を集めることが出来るようになると、そこに必ずといっていいほど起こる現象がある。視聴者のため、を意識しなくなり、作り手たちの中で「おもしろい」ことを優先して番組を作るようになっていくのだ。その「娯楽」はすでに視聴者のものではなく、作り手たちの「内輪」のものとなる。笑いは「内輪」の中で閉じ、それをみるたいていの視聴者にはさっぱりわからない。「内輪ねた」で回るようになった番組は、精彩を欠き、面白みを失う。

私は「シャーク・テイル」に、この現象が起こっているように思う。ハリウッド内にいる人物(セレブ)には、きっとすべてが「あれあれ!」という感じでおもしろいのだろう。「あいつこの声なんだぜ!」から、「あのセリフあの映画からだぜ!」「この音楽○○の替え歌だぜ!」までだ。一般人で、たとえアメリカ人でも、そのすべてを業界人と同じほど知っていて楽しめる人物は、きっと、少ないはずだ。ましてや、日本人大衆には・・・。

セレブへの憧れとその真実を描こうとしながら(全くの失敗であるが)、セレブに閉じてしまっているこの作品を作ったドリームワークが、「ひょうきん族」や「生ダラ」の二の舞にならないことを、せつにせつに願うのみである。

映画として 5/10
セレブで回れる人 8/10
ハリウッド・アメリカ音楽業界情報通 8/10

トスカーナの休日

 「トスカーナの休日」 お気楽映画の醍醐味

 ベストセラー小説、フランシス・メイズの『イタリア・トスカーナの休日』を、「写真家の女たち」のオードリー・ウェルズ監督で映画化したのが、この「トスカーナの休日」(Under the Tuscan Sun)である。

 サンフランシスコ。フランシス(ダイアン・レイン)は作家だが、最近は書評で評判を得ていた。が、突然の夫の浮気発覚、離婚。家を明け渡した失意の彼女に、友達のパティは妊娠でいけなくなった「ゲイツアー・トスカーナの旅」をフランシスにプレゼントする。
 迷いながらも旅に出たフランシスは運命的なものを感じ、一軒の古い家を購入し、トスカーナにとどまることを決意する・・・。

 いわゆる「女性の成長物語」である。しかし、この映画最大の魅力は、その再生の過程でも、もちろん魅力的ではあるものの、ダイアン・レインのかわいい中年女性ぶりでも、また、美しいイタリアの景色でもない。この映画の魅力は、その「気楽さ」にある。
 死語となってしまったが、かつて、「カウチポテト」という言葉がはやったことがある。カウチでのんべんだらりとポテトチップスでも食べながらビデオ鑑賞を楽しむ、というあれだ。「トスカーナの休日」は、まさにこの「カウチポテト」にうってつけの「気楽な」映画なのだ。 
 一人の女性の再生の物語でありながら、その語り口はあくまでも軽快だ。浮気をされた側であるのに家を追い出され、単身者用のアパートに移り住んだフランシスの惨めさはコメディタッチで描かれ、「ゲイ・ツアー」で戸惑う様子もまたおもしろい。そして、トスカーナの美しい景色。随所に出てくる美しいイタリアの田舎の景色は、叙情的でも芸術的でもなく、さらりと、ある意味セットのようなさりげなさで、それでいて登場人物の振る舞いや会話の中でロマンチックに描き出される。じっと胸に響く景色というよりも、あくまでもイタリアらしいロマンを演出するためのイタリア、であるのだ。
 登場人物にしてもそうだ。高校時代、友人と「待ち合わせ、イタリア男ならどうやって待つと思うか?」という笑い話をしたことがあるが、右手にジェラート左手にパスタを持って噴水の前に立ち、女が前を通ると「ベニッシモ!プレーゴ!アマコルド!(意味不明)」と口笛を吹いている、と想像したイメージ、そのままのイタリア人が目白押しである。自称フェリーニの知り合いで、いつもジェラートを食べながら現れる女性キャサリンや、くどき文句も名前も典型的なイタリア男のマルチェロ、といった、アメリカ人が、そしてわれわれ日本人が、想像するとおりのイタリア人ばかり登場するのである。 
 これを紋切り型で深みが無い、ととらえる真面目な視聴者もいるであろう。しかし私は逆に、この、悪く言えば深みのなさが、「気楽に」見れる娯楽映画としての最高の魅力なのではないかと思う。見ている側に自己を深く考えさせたり、心にずしんとのしかかるのではなくて、風がさっと通り過ぎたような、そんな軽妙さ、さわやかさ。ダイアン・レインはこの軽妙さをそこなわない程よいコメディエンヌぶりを発揮している点で、ゴールデン・グローブ賞ノミネートも納得である。

 軽妙で気楽、濃すぎず重すぎず―単純なアメリカ娯楽映画として、「カウチポテト」でもするか、な気分の女性たちにお勧めしたい一品である。

映画として 7,5/10
単純お気楽娯楽映画(女性用)として 10/10

トリビア・・・パティ役のサンドラ・オーは、なんと「アバウトシュミット」監督アレクサンダー・ペイン夫人!