「ドッグヴィル」   人間とはいかに汚ら

ここ数年私が目にした中で、最もよく練り上げられた「小説」、それがこの、ラースフォントリアー(ダンサーインザダーク)監督・脚本の「ドッグヴィル」である。

 チョークで引いた線のみでできた、簡単な地図のような、道や家の見取り図(時にドアや窓くらいは存在するが)の上で繰り広げられるこの作品は、ところどころにナレーションをさしはさみながら、その全てがむき出しの不穏な空間で繰り広げられる、いわば舞台劇だ。

 しかし我々は、本を読むときのあの感覚で、その上に色のついた壁や、風景をまるで繭のようにおぼろげに補いながら、この映画を見る。全てが映し出されるのではなく、補いながら見る画像のなんと鮮烈なことか。そしてそのストーリーの、なんと凄烈で陰惨であることか。


 アメリカ、道が行き止まる、最果ての小さな村、ドッグヴィル。時は、1930年代あたりであろうか。村の大人は全部でたった15人。グラスの加工と、リンゴ農園くらいで、他にたいした仕事もない、貧しい、俗に言う素朴な田舎だ。
  人々を道徳的な生き方に導こうと集会を主催する青年トムは、ある夜銃声を聞き、そこで一人の女(ニコール・キッドマン)と出会う。ギャングに追われているらしい。日ごろからドッグヴィルの人々は「受け入れること」が不得意であると感じたトムは、集会で彼女、グレースを「二週間の試用期間つき」でかくまうことを決める。それぞれの家で手伝いをし、認められたグレースは、受け入れられることとなるのだが・・・。


 人間はもろい。
かくまわれたグレースは、ギャングへの密告を恐れるがゆえ、何事にも逆らうことができない、いわば村の人々の意のままの存在だ。(おどおどした役をやらせたら、ニコール・キッドマンの右に出る人はいない。「アザーズ」然り。)退屈しきった村の人々の中に、完全な従属存在が与えられたとき、何が起こるのか。人間の欲望と理性と理想の狭間で、何が吐露するのか。「ドッグヴィル」の陰惨さは我々の想像をはるかにしのぐ。

 人間は、我々が思っているよりも、ずっとずっと汚らしい生き物なのだ。

この陰鬱な衝撃は、見ないとわかってはもらえないだろうと思う。むきだしのセットで語られるむきだしの人間を、ぜひ、見てほしい。

それにしてもトリアー監督の、人間への落胆度には、毎度のことながら恐れ入ってしまう・・・。

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 最初、「ドッグヴィル」というタイトルとその噂−どうやらセットは、床にチョークを引いただけらしい−を聞いたとき?と思ったが、映画を見て納得した。

 これは、ラース・フォン・トリアーの描いた「小説」なのだ。われわれが本を読むとき、読んだ内容を、絵的に想像しないだろうか。はっきりとしたものではなく、おぼろげで、とりあえず自分が納得できる程の想像である。いわば、白い紙の上にえんぴつで、ささっと描いたような・・読者の頭の中の簡素な想像世界で、登場人物は肉付き、動き始める。セリフ以外の説明の文章は、そのまま、その簡素でありながらリアルな想像世界に載せられる。

 トリアーはこの頭の中の感覚をそのまま映像化した。極力まで排除されたセット(床に引いたチョークの線と、少しのドアと家具だけの、すべてがむきだしのセットである)と、そこに細かに載せられるナレーション。まさに小説を読んでいる人間の頭の中を、再現しているのだ。

 同時に、私がこれを「小説」を意識した映画であると感じたのは、「ドッグヴィル」というこのタイトルとなっている村の、目抜き通りが、Elm St. 楡通りであることだ。アメリカには楡通りという名は一般的といえるほど多いのだが(それゆえ、これはどこにでも起きうる話なのである)、同時に、これは有名なユージン・オニールの小説、「楡の木陰の欲望」を思い起こさせる。この小説では、主人公の青年が、父親の後妻と、楡の木陰(楡はここでは父親の庇護をもさすのだが)で密会を重ねる。木の陰に隠れて果たされるさまざまな欲望が、描かれた物語なのであるが、「ドッグヴィル」において、ナレーションは何度も繰り返し、語る。

ドッグヴィルの楡通りには、楡の木はすでにない・・」

この映画では、欲望を隠す「楡の木」がない。それゆえに話が進むにつれ、その欲望はますますむきだしになっていく。隠されるものがない時欲望がどこまで行くのか。「ドッグヴィル」はそれを極限まで描き出すこととなるのだ。

 また、もちろん、このむきだしの舞台セットは、「ドッグヴィル」という村そのものを象徴してもいる。壁があってもないようなもの。盲目であると隠している老人は、隠しているということ自体を村中に知られ、内向的な運送業者は、いつどこの売春宿に出入りしているのかまで、村中が知っている。村中のことは、村中に筒抜けであり、そこにプライバシーとか、人権とか、そういった言葉は存在しない。それほどにそれぞれの家庭の境は透明で、あけすけである。

小さな、それぞれに境目のない共同体が、お互いの罪を認め合い、ともにその罪を犯したとき、彼らは共犯となり、そして彼らが法律となるのだ。

 『ドッグ』ヴィル。犬は忠実なイメージを持つとともに、全ての獣をも象徴する。You son of a bitch!という英語の罵言は、「メス犬の子供」の意だ。人間以下の卑しい生き物であり、同時にshepherd=牧羊犬=神の子羊(人間)を導くものという対極の意味を担った「犬」の村。禁欲主義が基本であるピューリタンの村に、その名が冠されている、それだけで話が、想像できようではないか。

(明日に続く)