「ドッグヴィル」 (2) 「

(批評のためにネタバレしています)

ドッグヴィルには、さまざまな人間が住んでいる。
自説を証明したいとやっきになっている自称思想家のトムや、リンゴ農園をやっている元都会人の男とその妻の子沢山一家、村で唯一の黒人とその肢体不自由な娘、家を持たない運送業者など。

 村人のために、かくまってもらうためではあるものの、親身になって尽くすグレースは、最初は彼らに感謝され、まさに彼女の名前Grace=神の恩寵通りの存在として受け止められて、村人の間に一見なじんだように見える。
 が、彼女の捜索を警察までが始めたことから、かくまうことで自分がリスクを負っていると感じた村人たちは、その恐怖心、その法に対する罪の意識を、彼女にぶつけることで払拭しようとし始める。

 リンゴ農場主は、今までいなかった話し相手と、欲望の対象として。黒人にはそれまでいなかった自分以下の存在として。運送業者には、遠くまで通わずにすむ売春婦代わりとして・・・それぞれがそれまで「なくてもいいけれど、本当は必要なもの」と感じていた全てを彼女に投影する。

 強姦され、さげすまれ、逃げようとしてもだまされ陵辱され、首輪をつけられ・・グレースへの村人たちの仕打ちはとどまることをしらない。(彼女は「りんご」のトラックで逃げようとする・・・人間の欲望と罪の象徴であるリンゴにまみれて逃げることなどできるわけがないのに!)マフィアに密告されることを恐れるあまり、表情も変えずに村人の仕打ちにただ耐えるグレースは、彼らにとって最高に好都合なフラストレーションの発散場、それをぶつける最高の欲望の対象であるのだ。

 そしてなによりも恐ろしいのは、その行為自体ではない。しまいには村の男たちが夜な夜な彼女を陵辱しに訪れるようになっても、女たちはそれを黙認するし、首輪をつけて明らかに悲惨な姿であるにもかかわらず、だれもそれをはずそうなどとは考えない。彼らはひとつの大きな欲望の共同体であり、ふくれあがった罪の共同体である。彼らが掟であり、彼女は人間ですらなく、物体でしかない。

 彼女に愛を覚えている(それはグレースを意のままに操っているという感覚から来る愛ではあるが)トムが、最終的に、自分の保身のために、その自らの手でマフィアに売ること決意する。

 実は私は、「ドッグヴィル」のラストまでのあらすじを、鑑賞前から知っていた。それには、こうかかれていた。
「村人たちの仕打ちに耐え切れなくなったグレースは、とうとう村を焼き村人を全員皆殺しにする」

あぁ、グレースはこのしうちに耐えられなくて、火を放つのか。まったくトリアー監督は、悲惨な話が好きだね。

勝手にそう思っていた。
が、実際はそんな単純なものではなかったのだ。
この映画は、「パッション」との対極をなすほどのテーマを抱えた物語だったのである。

 トムの密告によってやってきたマフィアの数台の車。礼金が入るのではと大歓迎をする村人たち。
ところが、マフィアはまず、「いったいどいつがこんなことをしたんだ!」と、グレースの首輪姿に激昂する。
そして、マフィアのドンとグレースの、二人きりでの車の中の会話が始まる。

ドンは、彼女の父親であった。

二人はある日喧嘩をした。全てを操る力を持っている父親と、その傲慢さを嫌い家を後にした娘。
悪事を働いたものはすぐに始末すべきだと言う父親と、許してやるべきなのだと語る娘。
その「許す」という姿勢自体が傲慢なのではないかと問いかける父親。黙りこくる娘。

父親は問う。「このままこの村においていくか?それとも私と来て、私の権力の全てを受け継ぐか?」
娘はそっと窓の外を見て、悩む。

お気づきだろうか。
これは、イエス・キリストと、神の会話に他ならない。
本来キリスト教の神(=ユダヤ教ヤハウェー)は、「罰する神」であって、「慈悲深い神」ではない。
イエス・キリストが人間の全ての罪をかぶってくれたからこそ、慈悲深く、許しを与えるようになったのだ。
(この辺の話は「パッションの日記」に詳しく以前書いたので、参考にされると良いかもしれない。簡単にですが。)

はじめはキリストを救世主、奇跡の人とあがめていた民たちが、その同じ口で、キリストを罰しろという。
キリストは「パッション」の映画のごとく、さげすまれ、傷つけられ、血まみれの状態で十字架にかけられながら、言うのだ。
「神よ、お許しください。このものたちは自分が何をしているのかわかっていないのです。」

首輪をつけられ陵辱され続けながらも、グレースは逃げず、耐えた。彼女の「許し」という信念のためだ。
彼女の首輪は、人間に捉えられたキリストの十字架に他ならない。

そこに、彼女の父親が問いかける。
「許す」という姿勢自体が傲慢なのではないか?

グレースは、父親の権力を譲り受けて、村全体を焼きつぶすことを、決意する。

これはまさに、ソドムとゴモラだ。この腐りきった快楽の都を、神は火によって滅ぼした。
火はキリスト教では、穢れたものを払うものとして捉えられているからだ。

 グレースは、キリストの選択したものを選ばなかった、もう一人のキリストである。
人間の罪と欲望の全てをかぶり、その全てを許したキリストの、もう一方の対極にいるキリスト。
あのときゴルゴタの丘で、神は問うていた。
この世界滅ぼしてしまおうか?悪いのはこいつらなのだから。それともお前、許してやるというのか?

今回のキリストは、前者を選択したのだ。世界の滅亡を。


村人は皆殺しにされ、村は全て焼け野原となる。
と、遠くで犬の声が聞こえる。村に一匹だけいた犬が、生き残ったのだ。犬は、チョークで書かれた絵である。
グレースは犬を殺さないでと手下に頼み、そして犬のほえ声が響く・・・と、チョークの絵が本物の犬となり、われわれにかみつかんばかりに吼える。
ジ・エンド

獣の象徴であり、神の羊飼いである犬が、牙を剥いてわれわれに示しているのは、ただひとつの疑問文だ。

こんな罪と欲望にまみれた世界など、滅ぼしてしまったほうがいいのではないのか?
許す必要など、あるものか。

トリアー監督がこの作品を世にはなったのが、現代だということを忘れてはならない。
どこぞの国は自分の利益のために戦争を始め
どこぞの子供たちは些細なことで友人を殺し
どこぞの会社は保身のために他人の命を粗末にする。

そんな現代を、許してやる必要など、あるのだろうか?


追記:ドッグヴィルのメイキングビデオが出ている。「コンフェッション」そこで語られるのは監督・スタッフ・役者たちとの折り合いの悪さとフラストレーションだ。その雰囲気の悪さが、この映画自体をすばらしいものにした。なんとも徹底した、監督ではないか。