CODE46

 「ひかりのまち」のマイケル・ウィンターボトム監督の2003年度作品である。

 近未来、上海。ウィリアム(ティム・ロビンス)は、パペルと呼ばれる都市間通行許可証の偽造事件の調査に訪れた先で、マリア(サマンサ・モートン)に出会う。出会った瞬間から彼女に惹かれるウィリアム。そして、二人の運命がつながり、新たな人生がはじまる・・・

 この映画に関して何よりもまず賞賛せねばならないのは、ウィンターボトムの映し出す「近未来」だ。それは、SFXを多用することによって未来を描く現代のハリウッド映画の多くへのアンティテーゼともいえる。彼自身ゴダールの白黒SF作品「アルファビル」のような近未来を描きたいと語っていたとおり、上海という(監督にとっての)異空間の中に「未来」を見出し、そこを切り取り、そして監督独特のビビッドでありながら澄んだ色彩を、流れる光を取り込むことによって、まるでSFXで描かれたのと同じ色合いの近未来を映像化してみせる。 
 遺伝子操作が可能な未来に普通車が走っている―といった点を、SF好きの観客は不満たっぷりにつついてみせるかもしれない。しかし、逆に、普通車が走っているフツウの現代を、何のSFXも無しに未来のように映し出してみせた、という監督の手腕を賞賛してほしい。そしてなにより、現代で近未来を描き、近未来で現代を描くというこのトリックに浸ってほしい・・というのが私の言い分である。

 ストーリーに対しても同様だ。それを通常のSFとして「つじつまを合わせて」考えていくと、しっくりとはいかないだろう。しかし、これを人類の大きな寓話と考えれば、また、その悲しいラブストーリーの叙情にだけでもひたっていただければ、それだけでもこの映画の真価はわかってもらえるのではないだろうか。これからご覧になる方には、「SFサスペンスラブロマンスー!」というレッテルだけははらずに、どちらかといえば現代美術を鑑賞するような心持で見ていただきたいといっておこう。

以下結末も含めてネタバレがふくまれます。ご注意ください。


CODE46とは、同一、または高いパーセンテージで重なる遺伝子を持つ男女の生殖行為を禁じる法律である。クローンが日常となった世界では、確かにありうる話である。
 この映画の世界では、人々は「内」とよばれる都市部に密集して暮らし、「外」は砂漠化し、同時にさまざまな伝染病がはびこる世界である。都市間移動の許可証パペルは厳しい審査のうえでのみ発行され、発行されないのにはかならず「理由がある」といわれるほどの代物だ。

 マリアとウィリアムは、遺伝子上では親子に当たる存在でありながら、生殖行為を行ってしまう。一度目は、避けがたいほどマリアに魅力を感じたウィリアムと、夢で彼を運命だと感じたマリアという間柄で。そして二度目は、おそらく消しきれなかった愛の記憶に突き動かされるマリアと、遺伝子上の母と知りながらその願いを聞き入れる、ウィリアムの間で。

マリアの記憶も、ウィリアムの記憶も、それは消され、書き換えられ、それでもなおかつ彼らは互いを探し、愛し合う。愛の記憶は、繰り返され、消され、繰り返され、そして永遠に続く。それがCODE46であろうと、だ。

 そもそもわれわれは元はアフリカの一人のイブではなかったか。イブと、その息子ではなかったのか。
 現代に生きるわれわれすべてが彼女の子孫であるなら、私たちは皆、マリアとウィリアムの二人のように、親子であり、また兄弟であるのだ。

私たちはその中で、引き裂かれ、出会い、愛し合い、死ぬ。そしてまた繰り返し、繰り返し出会い、愛し合う。新しい記憶を持って、新しい場所で、新しい体で、私たちは生まれ変わり、愛し合う。

マリアとウィリアムは、私たちを二人に集約したにすぎない。

古典「オイディプス」(知らずに父親を殺し母親を娶るも、後に悟り眼をつぶして荒野へ出る、永遠のさまよえる人間像である)で荒野へと出るのは男オイディプスであり、残されるのは母親であるが、この映画では、「内」へと戻っていくのはウィリアムであり、「外」の荒野をさまようのは女性であるマリアのほうだ。

偽のパペルを渡したことで死ぬにいたった友人を幸せと言い、「内」から「外」に戻ることを夢に見る彼女は、記憶を抹消されながらでも人の手による社会には制御不能な存在である―そんな最初の一人の「女」、マリア=イブが、荒野で「あなたに会いたい」とつぶやくとき、私たちはまた生の営みをはじめからたどり、くりかえすのである。



映画として 7/10
映像作品として 8.5/10

追記:あちこちで、サマンサ・モートンはよかったがティム・ロビンスがミスキャストという声が聞かれた。しかし、この二人が並んだ場面を見てみてほしい。二人の身長の差の大きさ―モートンが小柄なため二人は父親と娘のように背が違うが、実際はその間柄は逆である。これが母親と息子との永遠のラブストーリーであるなら、そして私たちの愛がイブとその息子から永遠に続いているなら、この「身長差」は明らかに監督の意図したものといわざるを得ない。
 ちなみにティム演じるウィリアムの妻役の女優は非常に背の高い役者を選んでいること(ティム・ロビンスは相当な長身であるので、それに並ぶ女優を探すのはたとえ西洋でも難しいことである)も、これを裏付けているように私は思う。