マシニスト (批評・ネタバレ)

"Ghost in the Machinist"―死と再生のために



批評ですので、結末に関するネタバレが含まれます。ネタバレでないレビューは前日にあります
          
 ギルバート・ライルは、科学中心主義の、「肉体と精神は全く別のもの」という考え方に対し、侮蔑の意味も込めて、こう書いて見せた。「人間の心は、機械の中の幽霊のようなもの」―つまり、人間の心と身体は、けして二つの完全に分離したものではなく、精神は身体を走る神経の、その合間に宿った幽霊のような存在である・・・。人間が自分を認識する思考も、記憶も、全てこの「幽霊」のなせる業であり、そしてその幽霊が住まうのは「機械」である身体である。 
 この映画のタイトル「マシニスト」が、なぜ「マシニスト」でなければいけないのか、そのはっきりとした理由を私は知らない。けれど、この映画のストーリーを考えるとき、私はライルの言葉を思わずにはいられない。「マシニスト」が機械の動作を停止してもそれが動き出し、機械工たちの身体をひきこむのは、そこに「幽霊」がいるからだ。「機械」=身体の動きをとめたつもりでも、「機械」=身体の中に宿った「幽霊」=精神 はその動きをやめない。「幽霊」=精神こそが「機械」=身体の歯車を回すのだ。

 この工場の機械に象徴される身体と精神の関係に気がつくと、この映画のストーリーはきわめてわかりやすいものとなる。トレバーは「機械の中の幽霊」を封印し、精神と身体をきりはなしたつもりであるのに、その「幽霊」が彼の眠りを奪い、血肉を奪い、身体を蝕み、そして再び「幽霊」−それは文字通り、彼のひき殺した少年や、亡くなった母親や、封印した以前の自分自身といった本物の「幽霊」となって映画に登場する―へと彼の身体を引き戻す。身体と精神は切り離せない。「幽霊」はあくまでも身体=トレバーの中にあり、彼を蝕んでいたのだ。

 「マシニスト」はどうやら「メメント」とその構成上比較されることが多く、その点で「斬新さが無い」と言われることがあるようだが、「メメント」はあくまでも記憶を保持できないという「病気」に蝕まれた男の話で、全てが明確に説明がつくのに対し、「マシニスト」は身体と精神の関係に重きを置いた、より文学的な作品である。その結末を予測させる多くのヒントー勝手に動き出す機械、ハングマン・ゲーム(綴りを入れていくことで、「処刑」の絵を完成させるゲームである)、「マリア」(=聖母)という名前の母親、地獄と天国の交差路といったものも、実に象徴的だ。ストーリーのリアルさそのものよりも、「マシニスト」という言葉の意味自体に込められた、そしてちりばめられたヒントにある知的装置こそが、この映画の醍醐味なのである。

 さて、彼を追い詰めるこの"Ghost in the machine"=精神が、いわゆる「良心」であることも、この映画の興味深い点である。トレバーはひき逃げをしたという事実を意識の外に追いやり、身体と精神をいわば分離させて暮らしていたものの、そのおいやった意識が彼の身体を蝕み、追い詰めていく。彼が不眠症になったのも、数々の幻影を見るようになったのもすなわちそれは、このおいやった意識=罪の意識=良心の所業である。

 彼に付きまとうアイバンの幻影は、もとのトレバーのマッチョな部分だけを取り出したような男くさいものであるのと同時に(それは彼の指の性的な隠喩からも見て取れる)、その所作から「死神」としてのイメージがつきまとうが、この「死神」がトレバーをあえて「自殺」のようなものに追い込むのではなく、警察へ連れて行く役割をすることを、見逃してはならない。アイバンという「死神」がトレバーに示唆しているのは、「罪を償わないと、天国にいけずに地獄に落ちる」という「死」であり、単純なトレバーの死による償いではない。
 人が日々眠り、目覚めるのが、繰り返される小さな生と死=再生であるのなら、罪を抱えたままの、そして「精神と身体を切り離した」ままのトレバーは、当然眠ることも、それに付随する再生(それは、キリストの復活にもシンクロする宗教的概念である)をも許されない。トレバーを再び目覚めさせる(=再生させる)ために、アイバンはトレバーに罪を償わせ、彼を眠らせるまで、導くのである。罪を償ったものだけが、死と再生を許されるのだ。

 死神のようでありながら、神に近いともいえる「良心」アイバンに、この映画にかかわったものたちの宗教的な意図(それが無意識であるにしろ)、あるいは「性善説」へのそこはかとない希望を、感じすにはいられない。

 また、本当は名も知らぬはずの、ひき殺した子供の母親「マリア」の役割も大きい。「痩せすぎてなくなってしまう」前に「良心」が彼の精神を揺り動かすために作り出すのが、アイバンが象徴する「恐怖」であり、「マリア」の象徴する「母の愛」である。子供をひき殺した瞬間に見た「母親」の姿を思い起こさせるために、彼の精神の「幽霊」は、彼の亡くなった母親を思い起こさせようとする。母子家庭で必死に働き、子供(それはすなわちトレバー本人でもある)のよき話し相手であり、慈しみ深く賢い母親。彼の「僕のウェイトレス」マリアは、僕の母親、であった。警察が自首を促すセリフのように、良心はたくみにトレバーに語りかける。「お前にも、母親がいただろう?あの子供にも、母親がいたんだよ・・。」彼がマリアの部屋で手にするガラスの器は、母の大切な形見であったのだ。


 ちりばめられた文学的・哲学的な象徴と比ゆに満ちたこの映画の、深みそのものを作り出したのは脚本家であり、それを「恐怖映画」として構築したのが監督であり、そしてその双方をきっちりとひき立ててみせたのが、撮影監督や、音楽監督であった。

 単純な謎解きサスペンスでもなく、結局なんだったの?といいたくなるような煙に巻く型のホラーでもない。
 知的装置を、けして頭でっかちにならず、同時にきわめてよく練られた恐怖映画として構築してみせたところに、この映画の真価をぜひ見ていただきたい。