ディープ・ブルー

 人間が生態系の中心であるとか、全生物の進化の頂点であるとか、そう奢るようになって、どれだけになるのだろうか。ルネサンスは人間の美しさをひたすらにたたえ、科学は人間の知の粋としてもてはやされ、クローン羊のドリーは人間が神の領域に達した証明であるかのように(もちろん賛否両論をもって)書き立てられる。
 しかし、人間は、この地球の実に70%以上を占める海の、足元にも及ばない。ましてや、自然の、そしてこの地球を作ったであろう誰か(または何か、でもよい。それを神と呼ぶかはその人しだいだ)になど及ぶはずもない。
 人間の奢りと、それを超えた崇高さをまざまざと見せ付けてくれる映画、それが、「ディープ・ブルー」である。

 BBCのアラン・フォザーギルが監督として指揮を執り、スタッフは、はじめの一年を生物学者たちとの膨大なインタビューに費やし、そして、計200箇所以上のロケ地での撮影に、四年半を費やしたと言う。残念ながらカットとなってしまったが、その中には日本のホタルイカの発光といったものも含まれていたらしい。

 その映像は、圧巻と言うほかない。まるで、「動くナショナルジオグラフィック」である。もちろんそれは危険と隣り合わせに膨大な撮影時間を費やした報酬であり、監督以下スタッフの腕の素晴らしさであり、また、編集のうまさである。
 が、しかし、われわれが目を奪われるは、彼ら海に生きるものたちの、ただただうっとりとするような美しさである。

 オキノテズルモズルの海流に洗われながらすすむ触手の美しさ、リーフィーシードラゴンの華麗さ、ゆっくりと意志を持ってただようクラゲたちの優美さに、深海の生き物たちの信じられないような輝き。次々と画面に現れる全ての生き物に、目を見張らずにはいられない。

 この映画を見ると、人間がなにをデザインしようとも、彼らにはかなわないことがありありとわかる。日々、「新しいデザインの・・」「斬新な・・」といった言葉があふれるこの世界に、「新しい」「斬新な」ものなど、あるわけもない。彼ら海底の生き物たちのほうが、数百倍新しく、斬新で、そして美しい。人間など、彼らにかなうはずもないのだ。

 空を飛ぶアルバトロスが、海に座り、そして泳ぐ魚の群れを追い散らし海の中で泳ぎ、獲物を捕らえるのを見るとき、その思いは頂点に達する。海中で銀色に輝く泳ぐ魚をそのくちばしでとらえ、水面に上がるとまた空を飛んでみせる鳥たちよりも、小さなプールでスピードを競い合う、飛べない人間たちのほうが優れていると、誰がいえよう。 
 獲物を心理戦で追い詰め、堂々とした威圧感で海を泳ぐ獰猛で美しいシャチたちよりも、地球上最大の哺乳類、鯨の完璧なデザインと優美さよりも、人間のほうが強くて美しいなどともし言おうとするなら、それはただの驕りにしか過ぎない。
 
 「人間は海より宇宙や空へと目を向けてきた」・・・・今こそ、人間がやってきた、そして、地球の始祖である、海へと目を向けるときが、来たのかもしれない。

そして、人間が、自分を世界の頂点だと勘違いしている、猿山のサルにしかすぎないことを、認識すべきときでも、あるのかもしれない。

映画として 9/10 (ストーリー性がないと見れない人のために−1)
映像として 100/10
海の生き物 点数付け不可能

コンスタンティン

 キアヌ・リーブスが「マトリックス」的な格好よさを見せると鳴り物入りの映画、「コンスタンティン」である。

 ジョン・コンスタンティンは、悪魔祓いを生業とする男。肺がんで余命いくばくもない彼は、悪魔との壮絶な戦いを生き延びてきたハードボイルドだが、利己的な男である。彼が悪魔と戦うのは、かつて二分だけ成功したことで地獄行きが決定してしまった自分の次の死を「天国行き」へするためであり、誰かのためではないのだ。
 そんなある日、天国と地獄の均衡が崩れかけていると感じた彼は、「悪魔が見えた」妹の自殺に不審を抱く女刑事アンジェラ(レイチェル・ワイズ)と共に、その真相を追うことになる・・。


 この映画の要素は複雑だ。それは、キリスト教をバックにしたファンタジーであり、オカルトの世界であり、また、ハードボイルドの世界であり、推理物の世界であり、「●●のアイテムだと敵を倒せる」といったゲームの世界であり、そして、CGで見せるアクション映画の世界である。

 この「要素」はどうやら、原作となっているアメコミ、「ヘルブレイザー」から導入された世界観らしい。ファンサイトによれば、このコミックにはキリスト教的な要素はもちろんのこと、ブードゥーといった世界のオカルティックなものが幅広く登場する。また同時に、そのキャラクター設定や物語のすすみ具合は、いたってハードボイルドで、私が感じた限りでは、ダシール・ハメットや、エド・マクベイン的な世界観を持っているように思う。
 漫画の中でのジョン・コンスタンティンは、ヘビースモーカーで、ハードボイルドで、そして悪魔と契約を交わしており、多種多様なオカルト世界の中をくぐりぬけながら生きている。ハードボイルド+オカルトの世界観と言うのは、そういえば「エンゼル・ハート」以来見かけなかった代物であるから、宗教をも超えたこの設定は圧巻と言えよう。

 さて、映画となった「コンスタンティン」は、漫画の多種多様なオカルト要素、というのをきわめてアメリカ向けに(あるいは西洋向けに)手直ししている。映画の中のジョン・コンスタンティンは、「天国に行きたいから悪魔祓いをする」のであるから、明らかに「キリスト教信者」であるし、刑事アンジェラは、思いっきりカトリックである。用いられたり話にでてくるアイテムは明らかにキリスト教の息のかかったものが多いし(キリストを刺した槍などがその典型である。個人的にはドラゴンの息のほうが楽しそうだ・・・)、そこに繰り広げらるのは、たとえこの地上の世界が「天国と地獄の均衡を保っている、天使と悪魔が死者を取り合っている世界」だとしても、そのキリスト教的序列は変わらない。けっしてキリスト教から離れないところが、この映画の製作者側のあざといところだとも、言える。

 さて、結局のところその改変ゆえ、漫画本来の深みと言ったものが薄まってしまったのが一番の残念なところである。「世の中には多種多様の恐ろしいことが存在する」から、「世の中には天使と悪魔がいます」への改変は、それはたしかに薄いものに成るのは仕方がない。存在する世界の厳しさ(?)が違うのだから、当然ジョン・コンスタンティンのハードボイルドさも、薄くなる。そう、「ダークヒーロー」さすらも、それは薄めてしまうのである。(天国に行きたがるダークヒーローって・・・・)
 しかも、監督のフランシス・ローレンスは、MTV出身の、長編はこれが初めての監督である。映像的、音楽な強調の仕方(たとえば、ジョンのタバコと、すすけた壁紙の部屋にかかるモダンジャズ・テイクファイブなど)は長けていても、ストーリー的な深みを持たせるやりかた、演出の仕方はまだうまくはない。(ラストの屋上での洒落ているはずの場面が陳腐に見えてしまうのは、その深みの出し方の下手さゆえだと思う)最高のCGと(ただし、それは最近のハリウッド映画の傾向どおり、漫画的なものである)数々の宗教的比ゆ、アイテムを用い、それなりの推理物にしあがっているのに、なにか物足りなさを感じさせるのは、やはり世界観の薄さ、そして何より、ジョン・コンスタンティンというキャラクターそのものの描き方の薄さによるものであろう。キアヌ・リーブスファンにとっては、「無駄遣い」と感じる方もおられるのかも、しれない。

 映画としては「ヴァン・ヘルシング」と何か非常に似たものを感じさせる、薄めの娯楽大作として、酷評するほどのものではないと思うが、なにかもう少しうまくやれなかったのか、という残念さは残る仕上がりであった。

 残念さの理由のひとつは、その女優陣である。レイチェル・ワイズは女刑事を好演しており、オカルトの世界に巻き込まれていく表情や語りは非常に上手い。また、大天使ガブリエルを演じるティルダ・スィントンを見たときには、私は思わず「やった!」と叫びたくなったほどだ。彼女は両性具有の物語「オルランドー」の主人公を演じたりと、まさにこの役には適役で、中世的な魅力でガブリエルを演じているのだが、せっかくの逸材をこれまた陳腐に使ってしまうところが、ローレンス監督のもったいないところである。

 5分のMTVであれば不必要であった、セリフや映像的な間合いを「外した」映画として、そしてそれゆえに「ムード」(または映画全体の「トーン」ともいえる)をうまくコントロールできなかった作品として、監督はこの映画を次回作への反省材料としてほしいものである。


映画として 6/10
きっと「ヘルブレイザー・ファン」には 3/10
キアヌの顔が好きな人には 10/10
キアヌの演技者としてが好きな人には 5/10

バッド・エデュケーション

 (批評ですが、ストーリーをネタバレさせているわけではありません)

 ペドロ・アルモドバル監督の、最新作。「半自叙伝」と呼ばれるこの作品の主役は、映画監督エンリケと、その少年時代の親友イグナシオの二人。熱く悲しい愛の物語である。

1980年、マドリッド。若くして映画監督として成功したエンリケ(フェレ・マルチネス)の元に、少年時代教会学校で親友だったイグナシオ(ガエル・ガルシア・ベルナル)が突然現れる。俳優をしているという彼は、自分で書いたというシナリオを持っていた。
 あまりにも変わった旧友に疑いを持ちながらも、彼のシナリオに引き込まれ、映画化を決めるエンリケ
 シナリオは、少年時代の二人と、その仲を引き裂いた神父の物語から始まっていた・・・。

 この映画は「トーク・トゥー・ハー」を中心に、そしてその左右にひとつづつ、「オール・アバウト・マイマザー」と「バッド・エデュケーション」として位置するのではないか、というのが見た直後の私の感想である。

性転換者も含めた「女性たち」の、哀しくも強く美しい姿を描いた「オール・アバウト・マイマザー」、そして男性と女性のその隔たりを「昏睡」のシンボリズムで描いて見せた「トーク・トゥー・ハー」(批評はこちら)、そして、今回の「バッド・エデュケーション」という天秤である。

 「バッド・エデュケーション」の男たちは、美しくも、醜い。
 厳密に言えば、映画の中で製作中とされている「映画」の中でのオカマたちや少年たち、主人公の二人は、あくまでも美しい。
 ガエル演じるオカマ・サハラはこの上なく美しく、再会するエンリケとのセックスも最高にロマンチックだ。少年たち二人の思い出はレトロな甘美さにあふれ、イグナシオを愛するが故陵辱するにいたるマノロ神父と、イグナシオ少年との「ゆがんだ愛」(もちろんそれはイグナシオにとっては陵辱以外の何者でもない)は、「そのもの」のシーンは何も無いまま、イメージだけで映される。それが、「映画の中の映画」におけるオカマたちであり、少年たちであり、男たちの愛である。

 が、一方、「映画の中の現実」の男たちはどうだろう。プールで泳ぐ再会したイグナシオをじっとりとした目つきで見つめるエンリケの表情はセクシーであると同時に神経を逆なでし、男色にふけるベレングエル氏(=マノロ神父の退職後の名前)は疲れた老人で、エンリケに「主役をもらうため」に身体を開く”イグナシオ”の表情はベッドに押し付けられてゆがんでいる。オカマとなった現実のイグナシオは薬中毒で、作り物の乳房はいかにも作り物然としていて美しさのかけらも無い。「映画の中の現実」の男たちは、魅力的ではあるが、何か、醜く、その愛の行為は時に眼を背けたくなる。

 この映画が監督の「半自叙伝」であるとすれば、それはアルモドバルの現実と映画の狭間がこの映画に現れているとも受け取れるだろう。少年時代の美しい思い出の果てにたどり着いた彼の現在の人生の中で、男たちの世界は、名声への欲望や、肉体的な欲望にまみれ、時に男色も、オカマたちも、彼の映画の中とは違う醜い(=リアル)ものであるのかもしれない。

 この映画の主要登場人物で、おそらく最もマトモな人間として描かれているのは「享楽主義者」(少年時代の彼の言葉)エンリケである。「氷原を愛するものに会うためにバイクで走り抜けている間に死んでしまった男の話」に感動する彼は、肉欲におぼれるものではあるけれど、何が正しく、なにがそうでないかは理解している。 彼は自ら選んだ「同性愛者」として描かれる。(それは「飢えたワニ」とも形容される、肉欲の塊ではあるけれども)

 一方少年時代の性的虐待でオカマになったイグナシオは、いわば追い詰められた結果の同性愛者であり、なぞの人物”イグナシオ”は役や金ほしさに嫌悪を抱きながら同性愛者の相手をするだけのことである。またベレングエル氏は、元神父で、妻子がおりながら実際は同性愛者である、という設定だ。自らの「性」を欺く、または欺かざるを得ない彼らの同性愛は、醜く、時に滑稽ですらある。

 「バッド・エデュケーション」とは、スペイン語タイトルそのままの英語であるが、この「男たち」の社会は、ひたすらに悪循環で、ひたすらに「悪しき教育」ゆえであるともいえる。それは、少年だけを完全に隔離し教育を施すキリスト教の敬虔な教育だけを指すのではない。「名声を求めること」「体裁を繕うこと」「教義を守ること」そして、それを妨げるものに、「手をかけること」・・・それは全て、男たちの社会で行われたことである。「オール・アバウト・マイマザー」で母親たちが自分の全てを投げ出し子供のために、そして友人のために尽くし、何かを越えていったのに対して、この男たちの自堕落さはどうだろう。この、男たちの情けなさは、どうだろう。

 映画のラストで登場人物たちのむなしい末路が簡単に説明され、そして、エンリケは、こう、語られる。

「情熱を持って、映画を撮り続けた・・・」

そのときの「情熱」=pasión(passion)という言葉が、大写しになることを見逃してはならない。pasiónはラテン語の「(肉体的な)苦しみ」が、「キリストの受難と死」をあらわすようになり、「(自分ではどうしようもならない)心理的な状態(=情熱)」、「言い尽くせないほどの怒り」そして最後には「強い愛、転じて肉欲」とまで意味を広げた言葉である。(その生い立ちの順序は違うかもしれないが、英語でもスペイン語でも、同じ意味を持つ)

 その一言が、この映画の全てを物語る。本当は、「パッション」と名づけられる映画であったのかも、知れない。


映画として 8.5/10
三部作としてみれば 10/10
ガエル 10/10
ノロ神父 100/10
フェレの目つき 100/10

オールドボーイ

 「JSA」のパク・チャヌク監督が、かのカンヌ映画祭でグランプリも獲得した、紛れも無い傑作である。


 オ・デスは妻と一人娘を持つ、遊び人ではあるが極めて平凡なサラリーマン。が、娘の誕生日プレゼントを持ち帰る雨の中、忽然と姿を消す。
 彼が次に目覚めたのは、古汚いどこかの部屋。拉致され、監禁されたのだ。
一年に一本、彼は腕に刺青を入れた。そしてそれが15本となったある日、目覚めると彼は外の世界にいた・・・「妻殺し」の濡れ衣を着せられて。
 自分を監禁したのは誰なのか?そしてその理由は?オ・デスの、壮絶な復讐が始まる。


 韓国映画はおもしろいらしい、とか(「猟奇的な彼女」「僕の彼女を紹介します」)、韓国映画は素敵らしい(「甘い人生」・・)とか、韓国映画のアクション物はドラマチックだよね(「シュリ」)であるとか、そういった韓国映画に対する漠然とした先入観は、まず、捨てていただきたい。韓国映画は確かに良作が多いが、日本映画が「メリハリ」がきかないのがその短所のように、韓国映画はなぜか意味無く「派手すぎ」たり「だらだらとエピソードが続く」という短所がある。(と、思う。もちろん私の個人的な意見としての「各国映画の傾向」であるが。)

 が、「オールドボーイ」にはそのどれもあてはまらない。「シンプルさ」がその最大の魅力の一つであるからだ。
 その「シンプルさ」は最高に計算しつくされたものである。ストーリーは原作である日本漫画「オールドボーイ」からきているものであるにしろ(しかしその展開結末とも大幅に違うらしい)、その筋の展開のさせ方、場面の挿入の仕方は、無駄な場面がいっさい無いのみならず、謎解き映画系にありがちな「あれって、どうしてだったの?」というのが、ほとんどない。ストーリー展開に無駄がいっさい無く、しかも明快であるのは、この映画の第一の強みである。

 しかしなにより素晴らしいのは、監督本人が一万枚は描いたといわれる絵コンテにそって撮られた、完璧なまでに計算しつくされたアングル・カットであり、それを芸術作品としてまでに高める、美術・音楽・照明の技術の高さである。
 オ・デスが監禁された部屋を見れば、とたんにこの映画が「韓国らしさ」が極めて少ないのに気がつくであろう。もちろんオ・デスが見るテレビでは韓国の歴史が刻まれるし、オ・デスが歩く町並みにはハングルがあふれる。が、監督はそういった風物を取り入れて「現実らしさ」をかもしだすよりも、がちゃがちゃとした柄の壁紙や、70年代初頭を思わせる色合いの家具や衣装、そしてどこか「古ぼけた」壁、エレベーターといったところにオ・デスの苦悩が刻み込まれた顔や立ち姿を配置することで「リアル」を作り出す。

 オ・デスが監禁されていた場所の用心棒たち数十人と戦う「緑の廊下」の場面などは、まさに監督の骨頂である。古ぼけた廊下の緑の壁と、床にたまる赤い血・黄色い照明というセッティングのもとで、前からではなく、あくまで横から、オ・デス対用心棒たち の戦いをロングショットで写してみせるその場面は、「マトリックス」のラストシーンを思わせるが、その数倍壮絶で、そして、数百倍も、芸術的である。(「マトリックス」を思わせるショットは他にもいくつかあり、また、セットや場面挿入が「ファイトクラブ」そのものだったりと、監督のハリウッドからの吸収・咀嚼力を感じさせる)

 オ・デスと知り合う女性ミドの回想は、彼女の顔の横から地下鉄が走り出て、大きな蟻が座っている・・(オ・デスの幻想の蟻もあるのだが、この蟻といい、数箇所に見られる非常に「痛い」場面は、「アンダルシアの犬」といったシュールリアリズムの手法だ)といった、シーンからシーンへの転換も、実に見事である。
 美術作品としての「オールドボーイ」は、まさに、何の文句もつけようがなく、そのまま現代美術館で展示が出来るほどである。そういえば、韓国の現代美術には素晴らしいものが多かったことを、思い起こされた。

 音楽は、音楽プロデューサーの下、三人の作曲家が担当しているが、テーマとなっている美しくも悲しいワルツ曲を書いたのは24歳というイ・ジス。(「シルミド」の音楽担当でもある・実はヨン様のピアノの吹き替えでもある)全ての曲が、素晴らしい映像とストーリーを、非常に効果的に引き立てている。

 また、主役を演じるチェ・ミンシクの演技力も忘れてはならない。最初に登場する酔っ払いのサラリーマンと、復讐を遂げていくオ・デスは、まるで全くの別人である。韓国では名優として名が高いらしいが、この寂寞感と怒りを内に秘めた演技は、まさに彼にしか出来ないであろう。また、他の役者陣も心に残る。

 最後になってしまったが、ストーリーは、最高に苦しくて悲しい、とだけ言っておこう。これは、ある、「獣に劣る人間」たち壮絶な復讐譚である。「あっと驚くような・・」とか「ドラマチック!」といった言葉が不釣合いなほどの、凄烈な人間ドラマと衝撃的な結末が、この映画を見た人全てを満足させ、声を詰まらせる、と断言しておこう。

 映画館で見れなかったことを惜しみつつ、今すぐ皆さんに見ていただきたい、傑作である。

映画として10/10
現代美術作品として 100/10
ストーリーの衝撃度 10/10
主役 10/10

追記:ピーター・グリーナウェイのファンである私が、チャヌク監督を「ポスト・グリーナウェイ」と呼んだら、賛同していただける方、おられますか。
(芸術的傾向は違うけれど、その手法の美しさで・・)

マシニスト (批評・ネタバレ)

"Ghost in the Machinist"―死と再生のために



批評ですので、結末に関するネタバレが含まれます。ネタバレでないレビューは前日にあります
          
 ギルバート・ライルは、科学中心主義の、「肉体と精神は全く別のもの」という考え方に対し、侮蔑の意味も込めて、こう書いて見せた。「人間の心は、機械の中の幽霊のようなもの」―つまり、人間の心と身体は、けして二つの完全に分離したものではなく、精神は身体を走る神経の、その合間に宿った幽霊のような存在である・・・。人間が自分を認識する思考も、記憶も、全てこの「幽霊」のなせる業であり、そしてその幽霊が住まうのは「機械」である身体である。 
 この映画のタイトル「マシニスト」が、なぜ「マシニスト」でなければいけないのか、そのはっきりとした理由を私は知らない。けれど、この映画のストーリーを考えるとき、私はライルの言葉を思わずにはいられない。「マシニスト」が機械の動作を停止してもそれが動き出し、機械工たちの身体をひきこむのは、そこに「幽霊」がいるからだ。「機械」=身体の動きをとめたつもりでも、「機械」=身体の中に宿った「幽霊」=精神 はその動きをやめない。「幽霊」=精神こそが「機械」=身体の歯車を回すのだ。

 この工場の機械に象徴される身体と精神の関係に気がつくと、この映画のストーリーはきわめてわかりやすいものとなる。トレバーは「機械の中の幽霊」を封印し、精神と身体をきりはなしたつもりであるのに、その「幽霊」が彼の眠りを奪い、血肉を奪い、身体を蝕み、そして再び「幽霊」−それは文字通り、彼のひき殺した少年や、亡くなった母親や、封印した以前の自分自身といった本物の「幽霊」となって映画に登場する―へと彼の身体を引き戻す。身体と精神は切り離せない。「幽霊」はあくまでも身体=トレバーの中にあり、彼を蝕んでいたのだ。

 「マシニスト」はどうやら「メメント」とその構成上比較されることが多く、その点で「斬新さが無い」と言われることがあるようだが、「メメント」はあくまでも記憶を保持できないという「病気」に蝕まれた男の話で、全てが明確に説明がつくのに対し、「マシニスト」は身体と精神の関係に重きを置いた、より文学的な作品である。その結末を予測させる多くのヒントー勝手に動き出す機械、ハングマン・ゲーム(綴りを入れていくことで、「処刑」の絵を完成させるゲームである)、「マリア」(=聖母)という名前の母親、地獄と天国の交差路といったものも、実に象徴的だ。ストーリーのリアルさそのものよりも、「マシニスト」という言葉の意味自体に込められた、そしてちりばめられたヒントにある知的装置こそが、この映画の醍醐味なのである。

 さて、彼を追い詰めるこの"Ghost in the machine"=精神が、いわゆる「良心」であることも、この映画の興味深い点である。トレバーはひき逃げをしたという事実を意識の外に追いやり、身体と精神をいわば分離させて暮らしていたものの、そのおいやった意識が彼の身体を蝕み、追い詰めていく。彼が不眠症になったのも、数々の幻影を見るようになったのもすなわちそれは、このおいやった意識=罪の意識=良心の所業である。

 彼に付きまとうアイバンの幻影は、もとのトレバーのマッチョな部分だけを取り出したような男くさいものであるのと同時に(それは彼の指の性的な隠喩からも見て取れる)、その所作から「死神」としてのイメージがつきまとうが、この「死神」がトレバーをあえて「自殺」のようなものに追い込むのではなく、警察へ連れて行く役割をすることを、見逃してはならない。アイバンという「死神」がトレバーに示唆しているのは、「罪を償わないと、天国にいけずに地獄に落ちる」という「死」であり、単純なトレバーの死による償いではない。
 人が日々眠り、目覚めるのが、繰り返される小さな生と死=再生であるのなら、罪を抱えたままの、そして「精神と身体を切り離した」ままのトレバーは、当然眠ることも、それに付随する再生(それは、キリストの復活にもシンクロする宗教的概念である)をも許されない。トレバーを再び目覚めさせる(=再生させる)ために、アイバンはトレバーに罪を償わせ、彼を眠らせるまで、導くのである。罪を償ったものだけが、死と再生を許されるのだ。

 死神のようでありながら、神に近いともいえる「良心」アイバンに、この映画にかかわったものたちの宗教的な意図(それが無意識であるにしろ)、あるいは「性善説」へのそこはかとない希望を、感じすにはいられない。

 また、本当は名も知らぬはずの、ひき殺した子供の母親「マリア」の役割も大きい。「痩せすぎてなくなってしまう」前に「良心」が彼の精神を揺り動かすために作り出すのが、アイバンが象徴する「恐怖」であり、「マリア」の象徴する「母の愛」である。子供をひき殺した瞬間に見た「母親」の姿を思い起こさせるために、彼の精神の「幽霊」は、彼の亡くなった母親を思い起こさせようとする。母子家庭で必死に働き、子供(それはすなわちトレバー本人でもある)のよき話し相手であり、慈しみ深く賢い母親。彼の「僕のウェイトレス」マリアは、僕の母親、であった。警察が自首を促すセリフのように、良心はたくみにトレバーに語りかける。「お前にも、母親がいただろう?あの子供にも、母親がいたんだよ・・。」彼がマリアの部屋で手にするガラスの器は、母の大切な形見であったのだ。


 ちりばめられた文学的・哲学的な象徴と比ゆに満ちたこの映画の、深みそのものを作り出したのは脚本家であり、それを「恐怖映画」として構築したのが監督であり、そしてその双方をきっちりとひき立ててみせたのが、撮影監督や、音楽監督であった。

 単純な謎解きサスペンスでもなく、結局なんだったの?といいたくなるような煙に巻く型のホラーでもない。
 知的装置を、けして頭でっかちにならず、同時にきわめてよく練られた恐怖映画として構築してみせたところに、この映画の真価をぜひ見ていただきたい。

マシニスト (ネタバレ無し)

momochiki2005-05-03

 工場で働く機械工(マシニスト)のトレバー(クリスチャン・ベイル)。すでに365日、寝ていない。極度の不眠症で、骨と皮となった彼の心の癒しは娼婦のスティービー(ジェニファー・ジェイソン・リー)や、空港のコーヒーショップのウェイトレス、マリア(アイタナ・サンチェス=ギヨン)との会話ぐらいのものだが、そんな二人にも「それ以上痩せると、なくなっちゃうわよ」と声をかけられるほどのやせ細り方である。
 工場では、新入りの機械工アイバンと知り合うが、機械の調整中に彼に気をとられ、そのために大事故を引き起こしてしまう。そんな時、トラバーは覚えの無いメモが自宅の冷蔵庫に貼ってあることに気づく・・・。


 スペイン・アメリカ合作のこの映画の監督はインデペンデンスではその名を知られたブラッド・アンダーソン。脚本はこれが二作目となるスコット・コーサー、そしてどこかノスタルジックでありながら、沼の底のような冷たい色合いをたたえた独特の映像は、「10億分の一の男」の撮影監督シャビ・ヒメネスの手によるものである。

 しかし、この映画のストーリーやスタッフよりも話題をさらったのは、体重を30キロ以上落とし、五十数キロのガリガリの姿でマシニスト・トレバーを演じたクリスチャン・ベールである。新「バットマン」にまさに適役の陰鬱さを持ち、また、「アメリカンサイコ」でもクールな殺人鬼ぶりを披露していた彼は、もともと痩せ型のハンサムガイだが、その元の姿が全く想像がつかないほどの、痩せぶりなのだ。痩せる前のトレバーもでてくるのだが、これはなぜか普段の彼よりも若干太めである。「太陽の帝国」のあの坊やがねぇ・・・なんてもう、口が裂けてもいえないほどの、ベールの役者魂を見せ付けてくれるのがこの作品なのだ。
 また、「僕は怖くない」では主人公の母親役を演じ印象深かったアイタナ・サンチェス=ギヨンや、クロネンバーグやカンピオンといった曲者監督に愛される演技人ジェニファー・ジェイソン・リーの確かな演技も、ベールのこの怪演ぶりをひきたてている。

 ストーリーについては、これ以上ふれることは著しく興をそぐことになるから、あえて批評としても語るまい。(明日は、ネタバレ批評版です)
 ただ、この映画の恐怖の見せ方は、超一流であるとだけは断言しておきたい。それは効果的に使われるかの「テルミン」の美しくも不気味な音の効果でもあり、また、あえて解像度が低い風の緑(あるいは赤)の濃い映像で、意図的に荒くショットを転換させながら恐怖を盛り上げていく監督の手腕、そして不気味な子供のゲーム「ハングマン」をはじめ、さまざまななにげない小物の用い方、撮り方のうまさ故でもある。
 最近の恐怖映画が派手になるにつれ忘れてしまった恐怖の色合いがそこにはある。近年のハリウッドが日本ホラーの湿気ある恐怖に魅せられているのは有名な話だが、この「マシニスト」のノスタルジックな、「粗く濃い」恐怖にも、ハリウッドは大いに学ぶべきであろう。

 ベールのガリガリぶりもさることながら、そのストーリー展開、音楽、映像―斬新さが無い、であるとか、「○○○○」そっくりじゃん〜、といった批判を差し引いても、今すぐ映画館に走っても損は無い作品であると、言っておこう。

映画として 9/10
(斬新さ、の点で一点マイナスしたが、私としては、10をあげたいところではある)
ベールの鶏がらぶり 0.0001/0.0001

デビルマン

デビルマン」   あな、もったいなや、もったいなや・・・。


 「デビルマン」といわれれば、私はすぐさま実家の押入れから一枚の古いレコードを持ち出す。テレビ放映当時の主題歌のレコードを、私は30年後生大事にもっているのだ。当時まだ小学校に上がる前であった私の心を捉えたのは、なんといってもあのデビルマンの、「寂寞感」であった。
 悪魔であるのに、そう生きず、逆に悪魔たちを敵に回して戦うその姿。悪魔であって人間でなく、人間であって悪魔でない。そのどちらにも所属することの出来ないアンビバレントな孤高のヒーロー、デビルマンは、「勧善懲悪」の形態をとったアニメでありながら、非常に特異で、独特の世界観を持つ、傑作であった。
 「デビルマン」のヒーロー像はつまり、人間そのものであるのは容易に想像がつく。人間というのは実は善と悪の両方を兼ね備えていること、そしてそれを自覚しているからこそ、また強い存在となりうること。そういった「デビルマン」の根底に流れるもの、映画はそれを確かに、捕らえようとした。


 同じ高校に通う2人の親友、不動明飛鳥了。明は両親を亡くし、クラスメイトである美樹の家族(宇崎・阿木夫妻)に引き取られ穏やかな毎日を送っていた。
 そんなある日、新エネルギーを探索する飛鳥の父親が、調査中に“デーモン”を呼び覚してしまう。次々と人間を乗っ取り始めるデーモンたち。やがて明の体にもデーモンが侵食するが、明の心は負けず、驚異的な戦闘力を有しながらも、人間の心を持ったデビルマンとなる。そして、彼は人類を守るため、デーモンと戦うことを決意する。
 しかし、デーモンを恐れるあまりに人間たちは互いを殺しあうようになり、世界は荒廃していく・・・


このストーリーを読むと、その世界観自体は、アニメ「デビルマン」(漫画版もだが)をきちんとひきついだものであることがおわかりいただけるだろう。

ところが、である。「ビーバップ・ハイスクール」シリーズや「右曲がりのダンディー」で知られる那須博之監督が悪いのか、それとも脚本を担当したその妻那須真知子が悪いのか、いや、それとも配役を含めた全て東映そのものの責任なのか、この映画は、世紀の大失敗作といわれても仕方がない出来なのである。

 第一に、主役選びが終わっている。明役の伊崎央登ジュノンボーイ出身だからそれは端正な顔立ちだが、そもそも、「ジュノン」と「デビルマン」の組み合わせが良くない。ひょろんひょろんとした彼にデビルマンメイクをさせたとき、何が起こるか・・・苦笑いすら、出ないほどである。
 演技が下手なのは主役にありがちなことであろうが、その「棒読み」のみならず、アクション―たとえば、ワイヤーアクション後の着地のポーズ、といったものでさえ、まともにできていない。これは、監督が役者を上手く動かせなかったからなのかもしれないが、それにしても「マジメにやっています」という風が無い。女性陣の酒井彩名渋谷飛鳥のばっちりと決まったアクションシーンをその後見てしまうと、主役のしまりのなさは一目瞭然である。「下手」なのではない。ただ単に、「真剣にやっていない」のだ。
 一方飛鳥了役は主役と双子の伊崎右典で、なぜか彼のほうが伊崎央登よりは多少はマシである。が、所詮どんぐりの背比べといった感じだ。

 「デビルマン」に双子のジュノンボーイを持ってきた―その時点でおそらく、この映画は終わってしまっているのだ。

 SFXについても、アラがめだつ。その技術がうんぬんというのではない。しかし、その見せ方が問題だ。せっかくのフルCGでの戦闘シーンであるのに、異常にスピードが早く、何が起こっているのか全く分からなかったり、なんだか唐突にCGがでてきて急に消えていったりと、「見せ場」を全く意識していないのだ。CGが多少ちゃちいとしても、ダイナミックさや美しさといった、その見せ方次第で、いくらでもカバーができる。が、「デビルマン」はちゃちいCGを何も考えずに、ただ、時たま、挿入する。こんなCG,いらない。

 映画というのは、ときとして、興業のために主役に話題の人をいれ、その演技力を補うために回りに上手い演技陣を配置したりする。その最たる好例が「キューティーハニー」であった。悪役は皆劇団で活躍する曲者、そして最高の演技者ばかりであった。では「デビルマン」はどうかといえば、悪役は富永愛―最高に美しいでくの坊―で、キーパーソンとなる育ての親が、なんと宇崎・阿木夫妻―ご主人はそこそこだが奥さんが最悪のでくの坊―である。
 前にも書いたが、実は主役を取り巻く女性陣の酒井彩名渋谷飛鳥は、とてもよい演技をしている。アクションもがんばっているし、かもしだすムードもいい。しかし、この二人を凌駕する、ダメダメな他の出演人たち・・・そして意味無くたくさんの有名人(コニシキetc)を登場させているのも、かえって凶と出たのがこの映画であった。

 逆に言えば、ストーリー自体は大変深く、またおもしろいため、酒井彩名渋谷飛鳥が絡んでいて、主役のジュノンボーイたちやいらんCGが出てこない部分は、実は非常によくできていて、面白い作品なのである。(多少冗漫ではあるが)。けれど、これでは、「デビルマン」では、無い。

 あな、もったいなや、あな、もったいなや。
これだけの金を使い、なかなかの演技派美少女二人を従え、原作を受け継ぐ世界観と、深いストーリーを持っていながら、「デビルマン」がでてこない場面のほうがおもしろいといわれてしまう映画。

 東映さん、何がしたかったんですか?

映画として 3/10 ストーリーと美少女二人に免じて
主役 -100/10
デビルマンのコスプレ ある意味10/10