「テルマ&ルイーズ」 

テルマ&ルイーズ」   ラディカル・フェミニズムの歴史絵巻として

おそらくこれほど簡単に「語られ」ている映画も無いのではないだろうか。



 仕事と浮気が生きがいの口汚い夫の下でこそこそとした生活を送るテルマジーナ・デイビス)と、独身ウェイトレスで自由を謳歌するように見えるも、心に隠された秘密を持つルイーズ(スーザン・サランドン)。二人はルイーズのコンバーチブルで旅に出るが、バーで男にレイプされかかったテルマを助けたルイーズが、男の売り言葉に激情・射殺。一転おわれる身となる。

 テルマは若い男(ブラピ503)と意気投合するも、彼はコソドロ、有り金を持ってトンずらされてしまう。

 途方にくれたルイーズをよそに、テルマは急に行動力を発揮、食品店で強盗を働き資金調達をしてくる。

 刑事(ハーベイカイテル)は、二人が弱者であることを見抜き、ルイーズの過去も知っていた。二人を何とか説得しようとするのだが・・・



 もちろんこれはまぎれもなくフェミニズムの映画だ。抑圧されていた二人が殺人をきっかけにすこしずつ自己を開放し、最後には完全なる自由体となって羽ばたいて行く。女性をいやらしくからかう男のトラックを吹き飛ばし、彼女たちは進む。出てくる男たちはクズばかりだし(カイテルの刑事は、理解を示してくれる役どころであるが)、彼らの元に行くよりも、二人は空を選ぶのだ。

 が、しかし、こうした一般的な読みはもうあきあきしているであろう読者の皆さんに、ひとつだけ私の感じたことを記しておこう。

 私には、「テルマ&ルイーズ」の設定、そしてストーリーそのものが、アメリカのラディカル・フェミニズムの歴史そのものに見えるのだ。

 アメリカのラディカル・フェミニズムについて細かく書くことは、散漫にもなるだろうから、ここでは避けたい。が、ストーリをおいつつその歴史を説明してみよう。

 そもそもラディカル・フェミニズムは「全ての女性は男性の下で抑圧されている」という根本原理の元に成り立つ。キャラクターは二人。家庭で夫に抑圧され、その人生のほとんどを男性の庇護下で過ごした「主婦」テルマと、自立した「独身女性」でありながら、レイプ被害者としての過去を持つルイーズだ。この根本原理、この基本設定の下、映画は進行する。

 フェミニズム運動はまず、女性が一歩外に踏み出すことから始まる。男性の下から離れ、女性同士の絆を深める。しかし、その目的は、あくまで「男性中心社会の転倒」だ。挑発する「男」(バーの男)に対し「女」は銃を発砲する。レイプされかけたから殺したのではない。挑発されたから殺されたのだ。「男」と「女」の戦いがはじまる。

 しかし、「主婦」は常にもたれるべき男を必要とする。外に出た「主婦」は外の「男」にもたれるが、「男」は彼女を利用するだけであり、そして彼女に残したのは犯罪の手口だけであった。「男」から伝わった犯罪が、「女」を破滅のひとつの道へと導く。ラディカル・フェミニズムは社会を全て「男性中心の社会」ととらえる。犯罪も、「男」のつくったものだ。(「ゴットファーザー」をみよ!)全ての悪は男から来るのだ。

 そして、「殺人」にしろ「強盗」にしろ、「男」という悪によって女性が犯した犯罪を裁くその法律もまた、「男」が作ったものだ。(と、ラディカル・フェミニズムは考える)「女」は犯罪を犯すことで、男性社会へ挑戦する。法を破ることは、男性社会を転覆することに他ならないのだから。

 また、資本主義において女性を「見るもの」と位置づけ、快楽の対象(人、ですらない)としてしかみなさない運転手の男の「トラック」(車は男性の、性を想起させる象徴・しかもこの場合マッチョなトラック・ 逆に女性二人が乗るのは、風を真っ向から受けるコンバーチブル)を、二人は吹き飛ばし、明るく笑ってみせる。「男」への復讐が頂点に達した、ラディカル・フェミニズムの最盛期とでも言おうか。

 しかし二人は男性の「法」−警察に追われ、たとえ理解者(刑事)がいようとそれには耳も貸さずに、終局に向かう。

さて、ここで不思議に思ったのは私だけであろうか?なぜ、この二人は、警官隊に「向かって」車を走らせないのか?と。

明日に向かって撃て」で男たちは負けると分かっているのに、銃を持って警官隊に戦いを挑んだではないか?この二人の女性は、ある意味では「背中を向けて逃げて」いるように見えるし、いじわるな男なら、「弱っちいの」と思うかもしれない。

 が、ここにこそラディカル・フェミニズムの歴史がしっかりと描かれているのだ。

 もちろん、二人が崖に向かって車を走らせるのは、「映画としてその方がいいから」ともいうことができる。が、それだけではない意味を私は読み取りたい。これだけの映画なのだ、ラストが、「見栄え」だけのはずないではないか。

 ラディカル・フェミニズムは、「崖」は越えられなかったのだ。男性社会の転倒を目指した彼らの行動には、どうしても無理があった。社会全てを即座に転倒するというのは、無理があったのだ。だから、二人は決して生き延びない。崖の向こうに車が着いて、「ヤッホー!」というもうひとつのラストもあるが、土台それは採用されていない。なぜなら、事実はそうではないからだ。 ラディカル・フェミニズムはそのラディカルさ,過激さゆえ、そのままの姿では生き延びなかった。

 ではなぜ最後に抵抗し、銃弾だらけにならなかったのか?ラディカル・フェミニズムの最後は、糾弾され、その過激さゆえ反感を勝い、消えてなくなったのではなかったか?

 答えは「否」だ。ラディカル・フェミニズムは「男性と女性」という溝=崖 を越えられず、その中に飲み込まれてしまったが、その使命はしっかりと果たした。「女性が主体(主役)となりうる」という思想そのものを提示することである。

 テルマとルイーズはさわやかに、何かをやり遂げたかのように笑う。ラディカル・フェミニズムは、その成長と過激な所作によって、フェミニズムの存在を印象付け、女性の可能性を示唆し、男性によって身にまとわされていたものを一気に崖の下に落としてくれた。

 彼女らは崖に落ちたが、彼女らの笑い声は、そのむこうにたどり着いた。ラディカルフェミニズムを踏まえ、現在のフェミニズムは、男性と女性の「溝=崖」を理解し、そこに橋渡しをしようと努力する、「共感」に重きを置く流れも出てきている。(「地図の読めない女、話の聞けない男」など一連の男女理解本を想像してもらえれば理解できるだろう)もしも現代のテルマとルイーズなら、刑事の説得に背を向けず、間違いなく「男」との共感による対話を模索するかもしれないのだ。

 テルマとルイーズの笑い声は、あの崖を越え、次のステップー広い意味でのトランス・ジェンダーへとフェミニズムを導いたのだ。


 映画は、おうおうにして男性のものだ。監督の多くは男性だし、作り手は男性の観客を想定し、女性の裸を入れ、(「わらうイエモン」だー)なめるような視線で女性を撮る。

 女性を主体に置いた物語といえば即ラブロマンス(メロドラマ)という現実逃避のファンタジーで、それは結局、「声も考えもない」主体=女性 という男性の女性観を余計にひきたたせる。

 けれど、「テルマ&ルイーズ」は、女性が成長し、選択し、復讐を遂げ、考え、その笑い声で自由を掴み取る。二人は声も思想も持ったラディカル・フェミニズムその人であり、われわれの心の中にこの映画の深い印象を植え付けることで、永遠に、アメリカで起こったフェミニズム現象と同じ役割を果たしているのだ。

 主役も、観客も、女性をまさに主体にすえたこの稀有な作品を、製作が難航する中、最終的にプロデューサーまでかねて制作したリドリー・スコットには、たとえ今後どんな駄作を撮ろうとも、私は一生頭が上がらないと思っている。

 

結論

もう映画館ではやってないからね。女性には500円。男にはヘッドギアでもつけて見せようぜ。